ジョージ・ガーシュインをはじめ、コール・ポーター、ジェローム・カーン、ハリー・ウォーレン、ジョニー・マーサーという大物の作詞作曲家が毎日のようにやって来る。音楽出版社ならよくある光景だが、そこは「ミス・ブラウン・トゥ・ユー」や「シーズ・ファニー・ザット・ウェイ」の作者として知られるリチャード・ホワイティング邸だった。その大物たちが出来上がったばかりの曲をピアノで弾きながら試しに歌ってみてよ、と娘のマーガレットに声をかける。
よほどの音痴でない限り、幼いころから一流の音楽環境で過ごすとシンガーの道を選ぶのだろう。14歳のときに父を亡くしたマーガレット・ホワイティングがプロ・デビューしたのは16歳で、以来多くのヒット曲に恵まれポピュラーシンガーとしての地位を確立した。ジャズファンには馴染みが薄いが、50年に「マイ・フーリッシュ・ハート」の6ヴァージョンがヒットチャートを賑わしたなかでもベストに入る歌唱がマーガレットで、この曲が話題になると必ず出てくる名前だ。親の七光りという言葉があるが、才能がなければ光は一瞬にして消える。それだけ親の名前以上に並々ならぬ実力もあったのだろう。
キャピトルに残した「For the Starry Eyed」は、マーガレットが45年に大ヒットさせ、彼女の自伝のタイトルにもなっている「It Might as Well Be Spring」の歌詞の一節「I am starry eyed and vaguely discontented」から取ったもので、タイトル通り夢見る少女の想いを歌った曲を集めている。なかでもハロルド・アーレンの名作「レッツ・フォール・イン・ラヴ」が素晴らしい。ヴァースからの歌いだしは可憐で、コーラスに入ると恋する気分をうっとりする声で表現している。このアルバムを録音したときマーガレットは32歳だったが、既にベテランといえる貫禄がありながら恋する乙女心を失ってはいない。87歳で亡くなるまで可愛い人だったという。
曲の意図するところや表現方法を一番知っているのは作者自身であり、その作者から直々にレッスンを受けたマーガレットの歌唱が際立っているのは当然だが、それも作者に愛されないシンガーなら熱心に指導はしない。多くの作者に贔屓されたマーガレットは作者を尊敬し、その作者の仕事も熟知していたのだろう。邸宅を訪れた作詞作曲家のなかにウォルター・グロスとジャック・ローレンスもいたが、この二人は全く面識がなかった。その二人を引き合わせたのはマーガレットで、この邂逅から名曲「テンダリー」が生まれたそうだ。
よほどの音痴でない限り、幼いころから一流の音楽環境で過ごすとシンガーの道を選ぶのだろう。14歳のときに父を亡くしたマーガレット・ホワイティングがプロ・デビューしたのは16歳で、以来多くのヒット曲に恵まれポピュラーシンガーとしての地位を確立した。ジャズファンには馴染みが薄いが、50年に「マイ・フーリッシュ・ハート」の6ヴァージョンがヒットチャートを賑わしたなかでもベストに入る歌唱がマーガレットで、この曲が話題になると必ず出てくる名前だ。親の七光りという言葉があるが、才能がなければ光は一瞬にして消える。それだけ親の名前以上に並々ならぬ実力もあったのだろう。
キャピトルに残した「For the Starry Eyed」は、マーガレットが45年に大ヒットさせ、彼女の自伝のタイトルにもなっている「It Might as Well Be Spring」の歌詞の一節「I am starry eyed and vaguely discontented」から取ったもので、タイトル通り夢見る少女の想いを歌った曲を集めている。なかでもハロルド・アーレンの名作「レッツ・フォール・イン・ラヴ」が素晴らしい。ヴァースからの歌いだしは可憐で、コーラスに入ると恋する気分をうっとりする声で表現している。このアルバムを録音したときマーガレットは32歳だったが、既にベテランといえる貫禄がありながら恋する乙女心を失ってはいない。87歳で亡くなるまで可愛い人だったという。
曲の意図するところや表現方法を一番知っているのは作者自身であり、その作者から直々にレッスンを受けたマーガレットの歌唱が際立っているのは当然だが、それも作者に愛されないシンガーなら熱心に指導はしない。多くの作者に贔屓されたマーガレットは作者を尊敬し、その作者の仕事も熟知していたのだろう。邸宅を訪れた作詞作曲家のなかにウォルター・グロスとジャック・ローレンスもいたが、この二人は全く面識がなかった。その二人を引き合わせたのはマーガレットで、この邂逅から名曲「テンダリー」が生まれたそうだ。