デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

シナトラの用心棒が書いた This Love Of Mine

2015-07-26 09:20:04 | Weblog
 キティ・ケリー著「ヒズ・ウェイ」(文藝春秋刊)にこんな一節がある。「おれはけんかの仕方を心得ている。アマチュアのボクサーだったんだ。バーなんかで寄ってたかってフランクを痛めようってやつらがいると割って入ってぶちのめしてやったもんだ・・・フランクがあぶれていると、おれがクラブの仕事をとりつけ、ついていって伴奏してやった。おれは信じていた、だれかがフランクを買ってくれるのは時間の問題だってね」・・・

 フランクとはシナトラのことだ。では、腕っぷしの強い用心棒で、マネジメントをこなし、ピアノも弾けるのは誰か?同書では愛称の「ハンク」と書かれているヘンリー・サニコラである。優しい笑顔でシナトラをガードする写真が同書に載っているが、シナトラ同様シチリアの血が流れているので相当荒っぽかったようだ。サニコラといえばソル・パーカーと共同で1941年に作曲したナンバーに「This Love Of Mine」がある。シナトラが初めて作詞した曲で、彼をフューチャーしたトミー・ドーシー楽団の演奏は、多くのバンドやシンガーが手本とするものだ。共作とはいえ強面が書いたとは思えないほどメロディは美しい。

 モダン期に入っても人気のある曲で、ベニー・グリーンがブルーノート最後の作品「Walkin' And Talkin'」で取り上げている。J.J.ジョンソン、カーティス・フラーに次ぐBNのトロボーン奏者だが、前二者と大きく違うのはビバップ以前のスタイルから出発している点だ。BNデビュー盤「Back on the scene」と次作「Soul Stirrin’ 」はライオンの人選による作品でレーベルの路線に沿った形だが、こちらはグリーンのレギュラーバンドによって録音されているのでよりスタイルが鮮明になっている。当時、ハードバップの波に乗り遅れているオールドファンの琴線をくすぐった作品かもしれない。

 ・・・そのだれかがハリー・ジェームスだった、と続く。グッドマンのもとを去り自分の楽団を結成したハリーが、ちょうど歌手を探していたときラジオでシナトラを聴き、翌晩じかに見ようと出かけた。シナトラはハリーが幹線道路沿いのけちなクラブなんぞにやってきたとは信じられなかったし、ハリーもラジオで聴いた歌手がただのウェイターとは信じられなかったという。「たった八小節聴いただけで首筋が総毛立ってきた」とハリーは言った。世紀のエンターテイナーのデビューである。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする