デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

アーネスティン・アンダーソンとコンコードに乗って

2016-05-15 09:26:07 | Weblog
 クインシー・ジョーンズの自叙伝にジェローム・リチャードソンの回想が綴られている。「ジミー・スコットは体重がせいぜい100ポンドの小男だったが・・・彼は身長が6フィートもあるメンバーと喧嘩をし、勇敢にも立ち向かっていこうとした。みかねた女性シンガーのアーネスティン・アンダーソンが相手の男を説得し、一歩手前で事なきを得たこともある」と。ライオネル・ハンプトン楽団にいたころの話だ。

 この3人が参加していたのは1952年前後で、クインシーのほかにもアル・グレイ、ジミー・クリーヴランド、クリフォード・ブラウン、ウエス・モンゴメリー、ファッツ・ナヴァロ、ジジ・グライス、アート・ファーマー、チャールズ・ミンガス、フィニアス・ニューボーンJr.といった将来ジャズシーンを牽引していくジャズ・ジャイアンツが一時的に在籍している。何とも豪華だ。皆中退だがジャズの東大といったところか。喧嘩を仲裁したアンダーソンはツアーやギャラの問題でメンバーの出入りが激しいバンドをまとめる姉御肌だったのだろう。今年3月10日に87歳で亡くなっているので、当時まだ20代前半だ。

 1956年にスウェーデンのメトロノームに吹き込んだ「It's Time For Ernestine」で脚光を浴び、マーキュリーから数枚リリースしたあとイギリスに渡っている。名前も忘れかけていた1976年に、コンコード・ジャズ・フェスティバルに出演して健在ぶりを示した。この後空白を埋めるようにコンコードから続々とリリースする。勿論、スウィンギーでブルージーな歌声は昔のままだ。「Live From Concord To London」は、先に挙げたジャズフェスとロンドンのロニー・スコッツ・クラブのライブを収録したもので完全復帰を決定付けたアルバムである。何度も歌ってきたであろう「Love For Sale」が収めれているが、これが酸いも甘いも噛み分けた熟女の解釈だ。素晴らしい。

 アンダーソンは世代的にはエラ、サラ、カーメンの次世代として将来を嘱望されていたが、当時の多くのジャズシンガーがそうであったようにロックの隆盛で仕事がなくなっていく。また、スコットはレコード会社との契約のもつれから音楽活動ができなくなった。ともにブランクを乗り越えてシーンにカムバックしている。復帰後の活躍はご存知の通りだ。本物とはブランクの間も練習を怠らない人を言う。
コメント (8)
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