1961年の正月にアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが来日した。蕎麦屋の出前持ちがモーニンを口笛で吹いていたという伝説も生まれたファンキーブームの到来である。フロントにモーガンとショーター、ティモンズとジミー・メリットがバックという豪華メンバーだ。次の来日は63年で、このときモーガンに変わって先週話題にした「Big Apples」に参加しているフレディ・ハバードが初来日している。
そのハバードを最初に聴いたのは72年のこと。ジュニア・クック、ジョージ・ケーブルス、ベースにAlejandro Scaron、レニー・ホワイトを引き連れてバンドリーダーとしての公演だ。ハバードの艶やかな音とキレのあるフレーズに唸ったものだが、この日一番衝撃を受けたのはクックのプレイである。B級だの、垂れ流しだの、閃きがないだのと散々酷評されてきたテナー奏者だ。ホーレス・シルバーのレコードで聴く限りブルー・ミッチェルといいコンビだが、決して先を行くプレイではない。その印象で生に接したものだから座席から飛び上がるほど驚いた。まず音がデカい。指の動きが華麗だ。
そして、息継ぎなしで長いフレーズを吹くサーキュレーション・ブリージングに圧倒された。生を聴いて知ったテクニックだ。シルバーの元を離れてからも引っ張りだこで多くのレコーディングにクレジットされるとともにリーダー作も何枚か吹き込んでいる。そのなかから1988年のスティープルチェイス盤「The Place To Be」を選んだ。ミッキー・タッカー、ウェイン・ドッカリー、リロイ・ウイリアムズという名手をバックに悠々と吹いている。特に「Over The Rainbow」がいい。美しいメロディーだけで成立している曲はたとえアドリブの素材に選んだとしてもメロディーを大きく崩さないのがルールである。そしてアドリブも美しなければ曲が生きてこない。
ブレイキーと入れ替わるように62年の正月にシルバーが初来日した。勿論クックがフロントだ。このライブの音源は残されていないが、72年のようにクックはステージであるったけのテクニックを披露したことだろう。当時観た方は小生同様、レコードとはイメージが違う演奏に驚いたことと思われる。クックの生を知る人はクックを高く評価するだろう。クックを貶す人がいれば生を聴いてから語れと言う。
そのハバードを最初に聴いたのは72年のこと。ジュニア・クック、ジョージ・ケーブルス、ベースにAlejandro Scaron、レニー・ホワイトを引き連れてバンドリーダーとしての公演だ。ハバードの艶やかな音とキレのあるフレーズに唸ったものだが、この日一番衝撃を受けたのはクックのプレイである。B級だの、垂れ流しだの、閃きがないだのと散々酷評されてきたテナー奏者だ。ホーレス・シルバーのレコードで聴く限りブルー・ミッチェルといいコンビだが、決して先を行くプレイではない。その印象で生に接したものだから座席から飛び上がるほど驚いた。まず音がデカい。指の動きが華麗だ。
そして、息継ぎなしで長いフレーズを吹くサーキュレーション・ブリージングに圧倒された。生を聴いて知ったテクニックだ。シルバーの元を離れてからも引っ張りだこで多くのレコーディングにクレジットされるとともにリーダー作も何枚か吹き込んでいる。そのなかから1988年のスティープルチェイス盤「The Place To Be」を選んだ。ミッキー・タッカー、ウェイン・ドッカリー、リロイ・ウイリアムズという名手をバックに悠々と吹いている。特に「Over The Rainbow」がいい。美しいメロディーだけで成立している曲はたとえアドリブの素材に選んだとしてもメロディーを大きく崩さないのがルールである。そしてアドリブも美しなければ曲が生きてこない。
ブレイキーと入れ替わるように62年の正月にシルバーが初来日した。勿論クックがフロントだ。このライブの音源は残されていないが、72年のようにクックはステージであるったけのテクニックを披露したことだろう。当時観た方は小生同様、レコードとはイメージが違う演奏に驚いたことと思われる。クックの生を知る人はクックを高く評価するだろう。クックを貶す人がいれば生を聴いてから語れと言う。