コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

クラッシュ

2006-07-19 23:56:14 | レンタルDVD映画
アカデミー作品賞受賞映画。さすが、脚本・演出とも文句のつけようがない。ポリティカル・コレクトネス(PC:政治的な公正)に十全に配慮した見本。アメリカじゃ、まだこういう映画が、「良心的な作品」として、「静かな感動」を呼ぶのか。白人以外も同じ人間じゃないかというレベルなのか。差別者の差別は苦しみの表現であり、被差別者は差別者に許しや癒しを与える添え物なのか。映画としては人間の紐帯という希望に縋ろうとしているが、つまりは諸々の社会改革は破綻したというわけで、その意味では絶望的な映画といえる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノドンの下で

2006-07-19 13:44:00 | ノンジャンル
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。(日本国憲法前文・後段)


だから、日本人は、W杯など「世界」と冠したものに弱いのだな。憲法の理念が国民間にそれなりに定着しているわけだ。日本人は、「平和を愛する諸国民」が「自国のことのみに専念して他国を無視することのない国家」を築き、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」を構成していると思っている。少なくとも思おうとしている。また、そう思っても、あながち咎めたてられない戦後史を歩んできたといえる。

周知のように、日本国憲法は占領国だったアメリカから下げ渡されたものだ。したがって、アメリカもまた、「平和を愛する諸国民」が「自国のことのみに専念して他国を無視することのない国家」を築き、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」を戦後つくろうとしてきたことはいうまでもない。ただ、アメリカ人がそう思うことについては、激しく異議申し立てをする「諸国民」や「国家」や国連などの「国際社会」は枚挙にいとまがないだろう。アメリカのベースボールの頂点をワールドシリーズというように、アメリカこそが「世界」であって、「諸国民」や「他国」や「国際社会」にアメリカ人は興味がないようだ。

サンクトペテルブルグのサミットの席上において、ブッシュ大統領は食物を咀嚼しながら、ウェイターのようにブレア首相を呼びとめ、「あのクソヒズボラをなんとかするように、アナンは電話してほしいものだ」といったのを、うかつにも切り忘れたマイクが拾ってしまった。同じ理念から出発しながら、60年後、夜郎自大を極める彼とアメリカ。サッカーW杯に、平和を愛する「世界」を夢想する我々。60年前、憲法前文を日本人はどのように読んだのだろうか。たぶん敗戦の虚脱感と厳しい生活のなかで無垢な気持ちが大半を占めたのではないか。その無垢において、現在の我々とさほど変わりないように思う。たとえその無垢が、自宅に放火して母と妹を殺して逃げた少年が、他家の居間に忍び込んだわけを、「ワールドカップを観たかった」と供述するような稚拙な夢から発していたとしても、それを現実からの逃避と誰がいえようか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする