酷いタイトルだ。
ロイク映画では定評あるスパイク・リー監督作品。ハーバードビジネススクールMBA卒のエリート黒人青年が、エイズ新薬開発にからめて株価を操作する会社の不正を内部告発したものの、逆に濡れ衣を着せられて失職。金のために子どもが欲しいレスビアンの種馬ビジネスをはじめるが・・・、というお話。
http://www.celeb-tane.com/
スパイク・リー映画の美点のひとつは、「俺たちの痛みがわかるもんか!」という素朴ではあるが低劣でもある地点から、遠い場所に黒人の人々がいることだ。ギャングでもなければ、ラッパーでもなく、スポーツエリートでもなく、民主党ではなく共和党を支持して、「街頭でやたらに踊るな!」と怒ったりする黒人が登場するのがスパイク・リー映画だ。この映画でも、雄として性能力に長けた黒人イメージを肯定も否定もせず、レスビアンの女性たちの「産ませる機械」というフェミニズム的な視線を加えて、現代に生きる等身大の黒人青年を描こうとしている。
種馬で稼ぐ一方、会社の不正と闘う正義を青年は手離さない。彼の脳裏を去来するのは、ウォーターゲート事件の端緒となった一人のビル警備員の報われぬ生涯である。ニクソン退陣にまで至ったウォーターゲートビルへの侵入を通報した黒人警備員は、事件に関わった政界の大物や切れ者たちが、その後も裕福で著名な人生を歩んだに比べ、英雄とも称えられず貧しいままに忘れられた。種馬黒人青年は、「自分も彼のようでありたい」と決心するのだ。
濃い顔にさらに濃い演技でときに辟易させるジョン・タトゥールが、マフィアの親分に扮し、「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドのマフィア会議での演説を真似る。「麻薬を学校の近くや子どもには売らないでくれ」とNYの親分衆に釘を刺し、「黒人だけに売ることにしよう」と「良識」に訴えるあの名場面を種馬黒人青年に披露するのだ。実は親分の最愛の娘(モニカ・ベルッチ)が種馬青年の客になって妊娠したのを知り、首実検に連れてこさせたのだ。マーロン・ブランドの物まねをした後、親分は種馬青年に尋ねる。
「なぜ、黒人の犯罪率は異常に高いのか?」。種馬青年は、親分の真意を測りかねながらも、つまらなそうに、「貧困、教育の不在、家庭の崩壊、ブラーブラー」と答える。このブラーブラーと聞こえるのは、エトセトラエトセトラ、あれやこれやという意味らしい。「客のことは知っておかなくちゃな」という親分に、「わかりきったことを聞くな」とばかりに、ブラーブラー。公式論以上のことはいわないわけだ。親分もつまらなさそうに頷いて、首実検は終わる。くだらないインテリ野郎かどうか、親分は試したわけだ。
イタリア系とアフリカ系という被差別者同士が、ともに個人の力量を頼りに差別をはね返してきた男が、差別について語るとき、どんな態度でどんな言葉を選ぶか。噛み合わない世間話のように二人の差別論議は途切れて終わる。スパイク・リーらしく、差別をベタには語らず、被差別をどう語るかまでをメタに扱ってみせる。お気に入りの俳優を使った遊びの場面に見せているところが心憎い。
金も女も仕事もほしい、しかしそのどれにも満足はできない。ただし、子どもと家族は別だという結末はお定まりだが、とりあえず俺たちには、それを否定するような根拠はないし、それ以外の生きかたも見えていない。種付けされた女たちの出産シーンには実写が使われ、膣から赤ん坊の濡れた頭が出てくる。母親の苦悶と安堵の瞬間、歓喜の表情には、産んだことのない俺にも感情移入できた。母親はその瞬間、何のために自分がこの世界に生まれてきたかを知る、のだろう。そして、いま産まれたばかりの赤ん坊に、「私を守って!」と祈り念じるのだろう。
俺たちは必ず女から産まれる。ならば、すべての女は俺たちの母親といえる。ときに俺たちは、「私を守って!」という女たちの心の声を聴く。だが、俺たちは聴こえないふりをする。俺たちはもう赤ん坊ではないし、といって女の父親になる気もない、その他ブラーブラーによって、俺たちは女たちを裏切り続けるのだ。
ロイク映画では定評あるスパイク・リー監督作品。ハーバードビジネススクールMBA卒のエリート黒人青年が、エイズ新薬開発にからめて株価を操作する会社の不正を内部告発したものの、逆に濡れ衣を着せられて失職。金のために子どもが欲しいレスビアンの種馬ビジネスをはじめるが・・・、というお話。
http://www.celeb-tane.com/
スパイク・リー映画の美点のひとつは、「俺たちの痛みがわかるもんか!」という素朴ではあるが低劣でもある地点から、遠い場所に黒人の人々がいることだ。ギャングでもなければ、ラッパーでもなく、スポーツエリートでもなく、民主党ではなく共和党を支持して、「街頭でやたらに踊るな!」と怒ったりする黒人が登場するのがスパイク・リー映画だ。この映画でも、雄として性能力に長けた黒人イメージを肯定も否定もせず、レスビアンの女性たちの「産ませる機械」というフェミニズム的な視線を加えて、現代に生きる等身大の黒人青年を描こうとしている。
種馬で稼ぐ一方、会社の不正と闘う正義を青年は手離さない。彼の脳裏を去来するのは、ウォーターゲート事件の端緒となった一人のビル警備員の報われぬ生涯である。ニクソン退陣にまで至ったウォーターゲートビルへの侵入を通報した黒人警備員は、事件に関わった政界の大物や切れ者たちが、その後も裕福で著名な人生を歩んだに比べ、英雄とも称えられず貧しいままに忘れられた。種馬黒人青年は、「自分も彼のようでありたい」と決心するのだ。
濃い顔にさらに濃い演技でときに辟易させるジョン・タトゥールが、マフィアの親分に扮し、「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドのマフィア会議での演説を真似る。「麻薬を学校の近くや子どもには売らないでくれ」とNYの親分衆に釘を刺し、「黒人だけに売ることにしよう」と「良識」に訴えるあの名場面を種馬黒人青年に披露するのだ。実は親分の最愛の娘(モニカ・ベルッチ)が種馬青年の客になって妊娠したのを知り、首実検に連れてこさせたのだ。マーロン・ブランドの物まねをした後、親分は種馬青年に尋ねる。
「なぜ、黒人の犯罪率は異常に高いのか?」。種馬青年は、親分の真意を測りかねながらも、つまらなそうに、「貧困、教育の不在、家庭の崩壊、ブラーブラー」と答える。このブラーブラーと聞こえるのは、エトセトラエトセトラ、あれやこれやという意味らしい。「客のことは知っておかなくちゃな」という親分に、「わかりきったことを聞くな」とばかりに、ブラーブラー。公式論以上のことはいわないわけだ。親分もつまらなさそうに頷いて、首実検は終わる。くだらないインテリ野郎かどうか、親分は試したわけだ。
イタリア系とアフリカ系という被差別者同士が、ともに個人の力量を頼りに差別をはね返してきた男が、差別について語るとき、どんな態度でどんな言葉を選ぶか。噛み合わない世間話のように二人の差別論議は途切れて終わる。スパイク・リーらしく、差別をベタには語らず、被差別をどう語るかまでをメタに扱ってみせる。お気に入りの俳優を使った遊びの場面に見せているところが心憎い。
金も女も仕事もほしい、しかしそのどれにも満足はできない。ただし、子どもと家族は別だという結末はお定まりだが、とりあえず俺たちには、それを否定するような根拠はないし、それ以外の生きかたも見えていない。種付けされた女たちの出産シーンには実写が使われ、膣から赤ん坊の濡れた頭が出てくる。母親の苦悶と安堵の瞬間、歓喜の表情には、産んだことのない俺にも感情移入できた。母親はその瞬間、何のために自分がこの世界に生まれてきたかを知る、のだろう。そして、いま産まれたばかりの赤ん坊に、「私を守って!」と祈り念じるのだろう。
俺たちは必ず女から産まれる。ならば、すべての女は俺たちの母親といえる。ときに俺たちは、「私を守って!」という女たちの心の声を聴く。だが、俺たちは聴こえないふりをする。俺たちはもう赤ん坊ではないし、といって女の父親になる気もない、その他ブラーブラーによって、俺たちは女たちを裏切り続けるのだ。