4人の男女がくっついたり離れたりする話。作家ダン(ジュード・ロウ)とストリッパーのアリス(ナタリー・ポートマン)、新進写真家アンナ(ジュリア・ロバーツ)と医師ラリー(クレイグ・オーウェン)というカップル。
http://www.sonypictures.jp/movies/closer/site/
ダンとアリスの出逢いは、横断歩道の向こうとこちら。ふと視線が交わってニッコリ、歩き出したアリスが車に引っかけられて怪我。駆け寄ったダン、「大丈夫かい?」と声をかける。倒れたアリスが首を起こし、微笑みを浮かべて、「ハロー・ストレンジャー」と答える。ありそうもないやりとりだが、「ストレンジャー=見知らぬ人」はこの物語のキーワード。度々出てくるのだが、この場面では、アリスがロンドンに着いたばかりの旅人であることを示す。ダンはアリスを病院に連れていき、軽傷だったアリスがダンが勤める新聞社まで送っていく。「じゃ、グッバイ」と笑顔で手を振ったものの、別れ難く。
アンナとラリーの出逢いを仕組んだのはダン。エロサイトのチャットで淫乱女に扮したダンがラリーを釣り、アンナと名乗って水族館で待ち合わせる。なぜ、本物のアンナまで騙されて水族館に行ったのかといえば、ダンの本の著者撮影で逢ってから、互いに憎からず思っていたからだ。「医者の白衣で来て」といわれるまま、ラリーは前夜のノリで卑猥な言葉でアンナに声をかける。ダンを待っていたアンナはもちろん、思いがけず「ゴージャスな美女」を眼前にしたラリーも最初はびっくり。やがて騙された者同士の間抜けな出逢いが可笑しく、うち解けて。
青年作家と奔放な少女は同棲をはじめ、自立した女と中年医師は結婚してハッピイエンド。にはならず、ダンとアンナが不倫に走ってしまい、2つのラブストーリーが破局してからが、この物語の本番。ダンとアンナの3つめのラブストーリーは語られず、見知らぬ人から愛する人になったはずが、見知らぬ人に変わる愛憎劇に転じる。
ダンからアンナを好きになったと告白されたアリス。驚き、取り乱し、乞い願い、諦め、そして決断する。その憑かれたような感情の乱高下にもかかわらず、説得力を失わない論理に感心してしまう。こういう女は日本にはいない。落ち着きを取り戻したアリスは、「お茶を入れて」とダンに頼む。ほっとしてキッチンに向かうダン。何か腑に落ちず部屋へ戻ると、ドアが開いて、かき消えたようにアリスはいない。アリス(ナタリー・ポートマン)が可憐な余韻を残す最初の見せ場だ。
もとはロンドンでロングラン公演を続けている舞台の映画化らしい。生涯に一度も劇場に足を運ばない人でも、ブロードウェイの華やかなミュージカルや練り上げられた小劇場の舞台を居ながらにして観ることができる。映画の大きな楽しみのひとつだ。台詞に工夫を凝らす演劇だからか、それが西欧人の特色なのか、登場人物は呆れるほどすべてを語り尽くす。いつ、どこで、どんな風にセックスしたのか、何回イッタのか。男女はすべてを告白しあう。それが愛と誠実の証であると、裏切った側も裏切られた側も確信している。
「仕事とセックスは家庭に持ち込まない」と嘯く日本の男にとっては想像外の光景だが、ありのままを晒け出す強さには脱帽してしまう。洋画を観ていると、速射砲のように男を罵り詰る女が出てきて、ひとつの山場になる場面が多い。たしかに、アルカイック・スマイルを浮かべて押し黙っている女から、すべてを封じ込まれたような無力感を味あわされてふて腐れるより、身悶えするような激情から激しい論難をする女から胸板を揺すぶられて、自らの内なる「見知らぬ人」に問いかけ、オロオロ言葉を探すほうがより生産的な気がする。
永遠の愛ではない。一瞬先もわからない。自らを含めた「見知らぬ人」との出逢いと別れ。発せられる言葉のひとつひとつが鋭い切っ先となって、互いの心を刺し、抉り、貫いていく。ここでは、愛とは言葉であり、発語される瞬間であり、言葉の闘いなのだ。
昔、『冒険者たち』というフランス映画があった。リノ・バンチュラとアラン・ドロンの親友同士がジョアンナ・シムカスに恋する。観客の印象に残るのは恋する男二人であって、恋されてどちらも選べず迷っている女ではなかった。『冒険者たち』の場合、女はマドンナという記号だったからしかたがない。『クローサー』では、女も恋する。必然の男と思う。そうではなかったと知る。すでに新しい自分になっている。最後のニューヨークの雑踏をさっそうと歩くのは、少女から女へ成長したアリスだ。
男も自分に必然の女と思う。しかし、男は成長も脱皮もしない。俺は女にとって必然の男ではなかったのでは、と疑い続ける。そこで発見するのは、新しくはない、古いおなじみの自分に過ぎない。ついに男は自分の殻を破ることができない。少なくとも、女を通しては。だが、内向的ではない恋愛、自己愛とせめぎ合わない他者への愛があるだろうか。その意味で純粋に恋愛を味わっているのは、感情移入できるのは、やはりダンとラリーなのだ。
アリスと対比すればそういえるのだが、自立した女ながら受け身のまま、ダンとラリーの間を揺れ動くアンナの掘り下げかたによっては、全然違った映画になったかもしれない。アンナの写真の個展に、ダンに伴って行ったアリスは、ラリーから写真の感想を尋ねられて、「嘘よ。哀しげな表情の肖像写真ばかりだけど、ただそれだけ、みんな嘘よ」という。
それはアリス自身が被写体になったポートレートを指す言葉だが、ダンへの想いを隠してアリスをファインダー越しに見つめる嘘、見つめ返すアリスの瞳の涙に動揺しながら取り繕っているという嘘、つまりは肖像写真家でありながら人間を被写体としか捉えられない嘘を批難しているわけだ。
アリスはただの小娘だから芸術論を弄んだわけではなく、アンナと会うなり、自由闊達な恋愛共和国に参加できない閉ざされた自己を持て余すイケテない女と見抜いたのだ。困ったことに、アンナはその通り、惑い惑わせるわけでもなく魅せずに終わってしまう。これでは、たまに暴力も振るい、怒鳴り散らし、出張すれば買春もする凡夫ラリーの対という役割でしかなく、ダンと倫落美にならない。
ジュリア・ロバーツの硬質な美しさも、しんねりむっつりしたままではお人形のそれと変わらない。アリスとダンが奔放だが純粋、アンナとラリーが俗物だが一途、そんな対比だとすれば、女神のような俗物のリアリティが描き足りない。ラリー(クライブ・オーウェン)が恋した俗物男の大車輪を見せたのだから、アンナがくすんでいては、惚れた男がバカにみえる。
いちばんの嘘つき、「見知らぬ人」は、実は「純粋まっすぐ」のアリスだったという落ちに持っていくなら、2人の男を手玉に取る楚々としたアバズレのアンナをどうする。スター女優ジュリア・ロバーツのイメージを損なうと何か規制があったのなら、やはりミスキャストだろう。ロンドンの舞台を観たくなった。
背が低く足が短い上にがに股で歩くジュード・ロウ、大工の熊さんのように髭の剃り跡が濃い無骨なクライブ・オーウェン。どちらも視角によっては容貌魁偉とさえいえる。『冒険者たち』のアラン・ドロンの美形やリノ・バンチュラの洒脱には及びもつかないが、演技力で補い、平凡だが魅力的な男を造形している。
上質な恋愛映画は下手な社会派映画より、人を考えさせるようだ。社会の不正や不義を正すより、好きな女から不実を詰られて言い訳を探すほうが、ずっと難しいからかもしれない。
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ダンとアリスの出逢いは、横断歩道の向こうとこちら。ふと視線が交わってニッコリ、歩き出したアリスが車に引っかけられて怪我。駆け寄ったダン、「大丈夫かい?」と声をかける。倒れたアリスが首を起こし、微笑みを浮かべて、「ハロー・ストレンジャー」と答える。ありそうもないやりとりだが、「ストレンジャー=見知らぬ人」はこの物語のキーワード。度々出てくるのだが、この場面では、アリスがロンドンに着いたばかりの旅人であることを示す。ダンはアリスを病院に連れていき、軽傷だったアリスがダンが勤める新聞社まで送っていく。「じゃ、グッバイ」と笑顔で手を振ったものの、別れ難く。
アンナとラリーの出逢いを仕組んだのはダン。エロサイトのチャットで淫乱女に扮したダンがラリーを釣り、アンナと名乗って水族館で待ち合わせる。なぜ、本物のアンナまで騙されて水族館に行ったのかといえば、ダンの本の著者撮影で逢ってから、互いに憎からず思っていたからだ。「医者の白衣で来て」といわれるまま、ラリーは前夜のノリで卑猥な言葉でアンナに声をかける。ダンを待っていたアンナはもちろん、思いがけず「ゴージャスな美女」を眼前にしたラリーも最初はびっくり。やがて騙された者同士の間抜けな出逢いが可笑しく、うち解けて。
青年作家と奔放な少女は同棲をはじめ、自立した女と中年医師は結婚してハッピイエンド。にはならず、ダンとアンナが不倫に走ってしまい、2つのラブストーリーが破局してからが、この物語の本番。ダンとアンナの3つめのラブストーリーは語られず、見知らぬ人から愛する人になったはずが、見知らぬ人に変わる愛憎劇に転じる。
ダンからアンナを好きになったと告白されたアリス。驚き、取り乱し、乞い願い、諦め、そして決断する。その憑かれたような感情の乱高下にもかかわらず、説得力を失わない論理に感心してしまう。こういう女は日本にはいない。落ち着きを取り戻したアリスは、「お茶を入れて」とダンに頼む。ほっとしてキッチンに向かうダン。何か腑に落ちず部屋へ戻ると、ドアが開いて、かき消えたようにアリスはいない。アリス(ナタリー・ポートマン)が可憐な余韻を残す最初の見せ場だ。
もとはロンドンでロングラン公演を続けている舞台の映画化らしい。生涯に一度も劇場に足を運ばない人でも、ブロードウェイの華やかなミュージカルや練り上げられた小劇場の舞台を居ながらにして観ることができる。映画の大きな楽しみのひとつだ。台詞に工夫を凝らす演劇だからか、それが西欧人の特色なのか、登場人物は呆れるほどすべてを語り尽くす。いつ、どこで、どんな風にセックスしたのか、何回イッタのか。男女はすべてを告白しあう。それが愛と誠実の証であると、裏切った側も裏切られた側も確信している。
「仕事とセックスは家庭に持ち込まない」と嘯く日本の男にとっては想像外の光景だが、ありのままを晒け出す強さには脱帽してしまう。洋画を観ていると、速射砲のように男を罵り詰る女が出てきて、ひとつの山場になる場面が多い。たしかに、アルカイック・スマイルを浮かべて押し黙っている女から、すべてを封じ込まれたような無力感を味あわされてふて腐れるより、身悶えするような激情から激しい論難をする女から胸板を揺すぶられて、自らの内なる「見知らぬ人」に問いかけ、オロオロ言葉を探すほうがより生産的な気がする。
永遠の愛ではない。一瞬先もわからない。自らを含めた「見知らぬ人」との出逢いと別れ。発せられる言葉のひとつひとつが鋭い切っ先となって、互いの心を刺し、抉り、貫いていく。ここでは、愛とは言葉であり、発語される瞬間であり、言葉の闘いなのだ。
昔、『冒険者たち』というフランス映画があった。リノ・バンチュラとアラン・ドロンの親友同士がジョアンナ・シムカスに恋する。観客の印象に残るのは恋する男二人であって、恋されてどちらも選べず迷っている女ではなかった。『冒険者たち』の場合、女はマドンナという記号だったからしかたがない。『クローサー』では、女も恋する。必然の男と思う。そうではなかったと知る。すでに新しい自分になっている。最後のニューヨークの雑踏をさっそうと歩くのは、少女から女へ成長したアリスだ。
男も自分に必然の女と思う。しかし、男は成長も脱皮もしない。俺は女にとって必然の男ではなかったのでは、と疑い続ける。そこで発見するのは、新しくはない、古いおなじみの自分に過ぎない。ついに男は自分の殻を破ることができない。少なくとも、女を通しては。だが、内向的ではない恋愛、自己愛とせめぎ合わない他者への愛があるだろうか。その意味で純粋に恋愛を味わっているのは、感情移入できるのは、やはりダンとラリーなのだ。
アリスと対比すればそういえるのだが、自立した女ながら受け身のまま、ダンとラリーの間を揺れ動くアンナの掘り下げかたによっては、全然違った映画になったかもしれない。アンナの写真の個展に、ダンに伴って行ったアリスは、ラリーから写真の感想を尋ねられて、「嘘よ。哀しげな表情の肖像写真ばかりだけど、ただそれだけ、みんな嘘よ」という。
それはアリス自身が被写体になったポートレートを指す言葉だが、ダンへの想いを隠してアリスをファインダー越しに見つめる嘘、見つめ返すアリスの瞳の涙に動揺しながら取り繕っているという嘘、つまりは肖像写真家でありながら人間を被写体としか捉えられない嘘を批難しているわけだ。
アリスはただの小娘だから芸術論を弄んだわけではなく、アンナと会うなり、自由闊達な恋愛共和国に参加できない閉ざされた自己を持て余すイケテない女と見抜いたのだ。困ったことに、アンナはその通り、惑い惑わせるわけでもなく魅せずに終わってしまう。これでは、たまに暴力も振るい、怒鳴り散らし、出張すれば買春もする凡夫ラリーの対という役割でしかなく、ダンと倫落美にならない。
ジュリア・ロバーツの硬質な美しさも、しんねりむっつりしたままではお人形のそれと変わらない。アリスとダンが奔放だが純粋、アンナとラリーが俗物だが一途、そんな対比だとすれば、女神のような俗物のリアリティが描き足りない。ラリー(クライブ・オーウェン)が恋した俗物男の大車輪を見せたのだから、アンナがくすんでいては、惚れた男がバカにみえる。
いちばんの嘘つき、「見知らぬ人」は、実は「純粋まっすぐ」のアリスだったという落ちに持っていくなら、2人の男を手玉に取る楚々としたアバズレのアンナをどうする。スター女優ジュリア・ロバーツのイメージを損なうと何か規制があったのなら、やはりミスキャストだろう。ロンドンの舞台を観たくなった。
背が低く足が短い上にがに股で歩くジュード・ロウ、大工の熊さんのように髭の剃り跡が濃い無骨なクライブ・オーウェン。どちらも視角によっては容貌魁偉とさえいえる。『冒険者たち』のアラン・ドロンの美形やリノ・バンチュラの洒脱には及びもつかないが、演技力で補い、平凡だが魅力的な男を造形している。
上質な恋愛映画は下手な社会派映画より、人を考えさせるようだ。社会の不正や不義を正すより、好きな女から不実を詰られて言い訳を探すほうが、ずっと難しいからかもしれない。