コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

蜂起には至らず

2008-06-08 00:39:23 | ブックオフ本
『蜂起には至らず-新左翼死人列伝』(小嵐九八郎 講談社文庫)

1960年の樺美智子さんから、2000年の島成郎まで、27人の死を取材した小説家・小嵐九八郎氏も、40歳過ぎまで社青同解放派の活動家だった。

樺美智子、岸上大作、奥浩平、山崎博明、由比忠之進、望月上史、高橋和己、早岐やす子、向山茂樹、遠山美枝子、山田孝、奥平剛士、安田安之、川口大三郎、森恒夫、前迫勝士、本多伸嘉、斎藤和、中原一、東山薫、谷口利男、戸村一作、佐藤満夫、山岡強一、若宮正則、田宮高麿、島成郎。

このうち、病死は高橋和己、戸村一作、田宮高麿、島成郎の4人。それ以外は、自死、いわゆる内ゲバ死、同志による処刑死、テロルによる死であり、しかし、いかに無惨であろうと「非業の死」などではなく、前のめりに倒れた、それぞれの意志の死ではなかったかと問うているようだ。もちろん、望んで死んだ殺されたわけではないだろうが、自他の死を区別しない、啄木のいう「人を殺した人のまごころ」の死生観を共有していたようにも読める。

春の夜の 電柱に寄りて思う 人を殺した人のまごころ (夢野久作)

自らも「新左翼死人列伝」の一人であってもおかしくはなかった著者が、どのように27人の死について語っているか、その語り口がもっとも興味深い。激越、悲壮な新左翼アジ演説の真逆を試すように、おちゃらけた口調の自己省察を交えて、当事者であった自分やいまも活動を続けている党派の過去、殺した者、友人、家族の現在を苦しみながら語っているのがよくわかる。たぶん、著者の想定読者は、そうした人々だろう。

もちろん、内ゲバによる死者だけでもこの数倍に上るし、身障者になった人も数多い。また、警察官の死者も少なくなく、テロに巻き込まれた無辜の一般人の死者もいる。それを死屍累々と片づけることは権力以外にはできない。死といい死者というも、自殺であり、内ゲバ殺人、処刑殺人、テロルによる殺人であり、その非対称が語られることは稀だった。

しかし、殺し、殺された若者、生き残った者たちの血肉もまだ冷えていない。ノンポリであった俺でさえ、俺も同じ立場だったなら、殺したかもしれず、殺されたかもしれないとあらためて思った。そのけっして狂気ではない「正気の沙汰」のリアリティはいまも迫ってくる。いや、まとめすぎた。もっとまとまらない気持ちになる本だろう。著者も本を書きましたとは思っていないだろう。もっと別な独白なのかもしれない。

陰鬱になりがちなテーマだが、筆致の底は明るい。著者が社青同解放派だったせいかもしれない。昔、ある人を紹介されて、「アオ解だったんですか」と問い返して、殴られそうな気配になったことを想い出した。そりゃ、「アオ解」は蔑称だから、俺の不注意に怒るのも無理ないわけだが、40歳過ぎのただのサラリーマンがすぐさま拳握ったところに、このセクトの愛すべき素朴さがあるようで好感を抱いた記憶がある。

(敬称略)