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文学なんて怖くない

2008-06-17 23:53:45 | ブックオフ本
『文学なんて怖くない』(高橋源一郎 朝日文庫)

ほんとうの書評はネットにある
正しくは、その可能性はあるが、まだじゅうぶんではない。

本書は、作家・高橋源一郎から生まれた文芸評論家・タカハシさんが、

オウム出版から出されたパンフの石井久子の教え
田中康夫の「東京ぺろぐり日記」
金井美恵子の「恋愛太平記」
武者小路実篤の小説や随筆
バクシーシ山下や村西とおる、代々木忠のアダルトヴィデオ
「教科書が教えない歴史」(新しい歴史教育をつくる会)の藤岡信勝の「はじめに」
「失楽園」(渡辺淳一)

などを文芸的に読み、文学的に語ったもの。以前に読んだ『日本文学盛衰史』と同様に、日本の文芸と文学に対するきわめて真摯な問いかけを、エンターティメントをきわめて展開している。おもしろくってためになる。タカハシさんともタメになった気がする。

とりわけ、同意同感したのは、金井美恵子の「恋愛太平記」を論ずるなかで、新聞や雑誌に掲載されている書評や小説論は「詐欺同然だ」として、すべて「小説を論じたようなもの」にすぎないと断じている箇所だ。

タカハシさんによれば、小説を書評、評論するためには、その小説の原稿量のおよそ2倍から3倍の原稿量が必要だという。まず、その小説を全文引用して感想をつけるために、最低2倍、その結果としてもうひとつ別の小説が書かれるから3倍というわけだ。

もうひとつ別の小説が書かれる云々はともかく、全文引用して、それぞれの段落ごとに、何かを肯定すれば、同時に考え得るその否定を論じ、また必ず中間を示すことは政治的に正しい手続きである。そう逐次訳のように論を進めていけば、論じる者が意識無意識に侵す虚偽を最小限に防ぐことができるという。

話は違うが、もうひとつ別の小説が書かれるの「書かれる」。こうした受身形は韓国語にはないということを呉善花『スカートの風』で知った。「泥棒に入られた」のではなく、「泥棒が入った」だけだそうで、中国語も同様らしい。呉善花は、窃盗被害に逢ったということにも、自らの責任(戸締まりの不備や不注意など)を感じる日本人の心性の違いを見ている。

さて、1冊の小説を論じるなら、2冊の評論でしか対応できない。
実際上は、できない。しかし、まれにそれをおこなった人もいるとして、漱石の『明暗』をどんどん引用して論じ、『明暗』よりはるかに長大な評論を書いた小島信夫を上げている。

似たようなといえば恥ずかしいが、俺も全文引用は得意であった。最近は書き込みをやめてしまったが、某掲示板の常連だったことがある。いわゆる議論系の掲示板だったから、論争というかケンカというか、「やったれい!」ということがしばしば起きるわけだ。そこで、俺が得意とした戦術は、全文引用、全文撃破であった。

先方がパッとレスを見たとき、半端な量じゃないので、まずそこで圧倒するのだ。次ぎに、先方がもっとも考え抜いて書き、俺もその説得力に感心して納得した記述をやり玉に上げる。同時に、相手がもっとも弱いと思いながら書き、俺も突っ込みどころ満載だなと思ったところを評価する。先方は混乱し、やがて自滅する。

という自慢話がしたいのではなく、全文引用して逐一反論することで、その掲示板の読者に手の内をみせるということが大切だったわけだ。誤読や曲解ではなく、これこのとおり、嘘偽りはございません。倫理的に優位に立とうとするわけだが、その優位は自らをも縛る。けっこう真面目にテキストとして読むようになるのだ。

1冊の小説を論じるために、2冊の評論をする。原稿用紙1000枚の小説を2000枚を費やして論じる。商業メディアや商業出版ではできない。それに近いことができるとすれば、少人数の読書会か、輪読会だろう。ただ、これは集合的な意見になりがちで、終わってみてそれぞれ個人の評論といえるまで深めるには、よほど綿密な計画の下にやらねばならないだろう。

いちばん可能性があるのはネットかもしれない。原稿用紙1000枚の小説に2000枚は無理としても、50~100枚、論じたい箇所をできるだけ引用することはできるはずだ。もちろん、そんな暇とエネルギーを持ち合わせている人はネットでも少ないだろう。新聞や雑誌の書評に飽きたらず、しかしそうまとまった感想や論を書くこともできないから、エッセイ風の自分語りに読書感想をまじえて載せている。

メディアに載っているような書評や映画評によく似せた短文を載せるより、ずっと誠実な態度であり、読みがいもあるが、たまには長いものが読みたいものだ。えっ、おまえがやれって? 過分なお言葉ですが、最近、仔猫が3匹増えちゃって。

でも、「教科書が教えない歴史」(新しい歴史教育をつくる会)の藤岡信勝の「はじめに」のあげあし取りくらいなら、タカハシさんでなくても誰でもできそうです。ごく常識的に読み、常識的な感想を述べ、常識的な反論をくわえているだけです。論理や考えを飛躍させる必要はなく、テキストに添って延長するだけでいいわけです。

『発語訓練』(小林信彦 新潮社)

W・C・フラナガンの「素晴らしい日本野球」所収。雑誌「ブルータス」掲載時に、慶応大学の池井優教授が、「同じ名前の選手が異なったチームにいると、それは日本伝統のカゲムシャであるという指摘など、誤解というより、でたらめきわまる」という怒りの反論を寄せて、話題になった。イザヤ・ベンダサンと同様なしかけなのだが、書籍化に際して、「アメリカのスポーツジャーナリスト」であるW・C・フラナガンが池井教授に、「メジャーリーグにくわしいそうだが、日本野球を知らない」と再反論していて、さらに可笑しい。

可笑しいが、そこはかとなく哀しい。池井教授は政治学者で、たしかアメリカの占領政策を専門としていたはず。小林信彦が一貫としたテーマとし、描くところの戯画化された日本人の肖像に、ぴったりはまったふるまいを池井教授はしてしまった。が、「してやったり」とは小林信彦は思わなかったろう。

「日本野球のルーツはヤキュウにあり、ヤキュウとは陰謀を得意とした柳生一族のジュウベエが創始者である」と主張する「アメリカのスポーツジャーナリスト」がいてもおかしくない。アメリカをよく知るからこそ、池井教授は早合点したのだろう。アメリカ人の考える日本なんてそんなもの、というリアリズムとアンビバレンツな思いを小林信彦は池井教授と共有しているに違いない。

ただ、小林信彦は池井教授ほどアメリカにがんじがらめにはされていない。池井教授が狭量だというのではなく、そこは政治と小説という背景の違いだろう。本書にも、アメリカではなく、ソ連に占領され、形ばかりの独立を迎えた日本を描いた、「サモワール・メモワール」などがある。それは、「占領された日本」の変奏ではなく、日本人の戦後のもうひとつの物語なのである。いや、物語そのものを失った日本人の物語か。

(敬称略)