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新聞記者-疋田桂一郎とその仕事

2008-07-13 02:29:25 | 新刊本
『新聞記者-疋田桂一郎とその仕事』(柴田鉄治・外岡秀俊 編 朝日新聞社)

詩や小説や歌や句とは違う記述文を日々生産しているのは、新聞しかないだろう。今日に至る新聞文体をつくった一人といわれる朝日新聞の疋田桂一郎記者のルポや天声人語といったコラムなど記事の数々と社内研修会の講演などをまとめている。

2002年に疋田記者は亡くなっているから、遅れて出された遺稿集にも読めるが、編者たちの意図はまったくそうではなく、新聞記事と新聞記者を問い直す疋田の遺志を受け継ごうとするものだろう。疋田記者は著書を上梓することはなく、マスコミ学を教える大学教授に転身することもなく、友人知人の手によって遺稿集が出されることもなかった。それらを望めばいくらでも叶えられたのに、生涯一記者を信条として、「職人」でありたいと願ってきた人のようだ。

明晰で論理的でありながら、むしろ主観的といえるその記事は、やはり新聞でしか読めない記述文だ。詩や小説や歌や句の文は溢れているが、記述文は日本ではまったく不足している。事物をありのままに書いた、あるいは書こうとする文章はきわめて少ない。まして疋田記者のように冷徹な視点と情感豊かな観察が同居する記述文はほとんどないといえる。あれば、人を変え世の中を変えているはずだからだ。

1950年代から80年代まで、疋田記者の仕事のそれぞれは、現在読んでも色褪せることのない鋭い問題意識と堅固な論理に裏づけられている。洞爺丸遭難や伊勢湾台風、三井三池争議などのルポは、この海難事故や災害、労働争議について、まったく無知な人が読んでも、本質的な理解に到達できる優れたものだ。また、「新・人国記」や名画とたどる「世界名作の旅・ロシア」といった紀行文も、たぶんその分野の専門家を含め、誰が読んでも楽しめるものだろうと思える。

ジャーナリストは、貴族とも貧民とも話せなければならない、という。どちらとも合わせて話すことができるという意味ではないだろう。どちらとも異なりながら、どちらも耳を傾けざるを得ない別な言葉遣いができるということではないか。それは詩や小説や歌や句とは違う言葉だが、文体を持つ以上、文学の言葉のように思える。たしか、オーウェルも新聞記者は詩人や小説家とは違う文学の穴を掘る者だといっていたと覚えている。

疋田記者が社内報に掲載した自社の誤報事件の検証ルポ「ある事件記事の間違い」は本書ではじめて読むことができて、非常に驚いた。これほどの問題意識と予見性に満ちたルポが、1974年にすでに書かれていたこと。誰に頼まれもしないのに、個人として自発的に調査したこと。それが社内報に掲載されて広く社内の論議に供されたこと。しかるに、何ら制度改革などに生かされなかったことなど、山椒の木だけでは足りない驚きだった。

世に文章読本や論文の書き方はたくさん出ていて、手本となる名文も数多く示されているが、記述文の手本になるものは本書が筆頭ではないかと思う。ただ、本書を読めば誰でもわかるが、疋田記者が心がけた「無味無臭の真水」のような文章を真似るのはとても難しい。新聞や新聞記者の権威は地に堕ちて久しい。真似すべきはその問題意識と取材なのに、疋田文体だけを真似た、「カルキ臭い水道水」のような文章が新聞に満ちている。


(敬称略)
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