コタツ評論

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映画監督カツシン

2009-01-07 02:31:07 | レンタルDVD映画
CATVで放映されていた『座頭市』を観てしまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E9%A0%AD%E5%B8%82

1989年の勝新太郎監督作品である。息子の奥村雄大が真剣で死体役の俳優を刺し殺してしまう事故でケチがついた。「役者バカ」の勝新が凝りに凝った映画づくりをするために起きたような報じかたをしたメディアもあったと記憶する。

「影武者」の撮影現場で「世界のクロサワ」と衝突して武田信玄(と影武者)役を降りて以来、勝新の映画や芸能に関する持論は正当には評価されず、映画を芸術と持ち上げるインテリたちからは失笑されている向きがあった。

この作品への見方も、インテリがすべき映画監督を高校もろくに出ていない役者風情がという侮りと、製作と監督を兼ねているのをよいことに、俳優としてのキャリアもろくにない息子を抜擢した親バカが招いた不祥事というものが大半だった。

ところが、勝新太郎監督『座頭市』がなかなかいいのである。バラエティ豊かな絵づくりは文句なしに楽しめ、構図や流れが見事に決まっているのだ。場面場面の完成度は非常に高く、アクションシーンはすばらしい出来である。そして、奥村雄大がいい。

勝新より叔父の若山富三郎に似ているが、俳優ではなく「役者」の、それも時代劇の役者の顔をしている。声も凄みがある。歌舞伎俳優と同じ、伝統が造った顔と声だ。「ブラックレイン」で松田優作が演じた役柄と同じだが、金しか信じない冷酷な若者像を表現して優るとも劣らない。事故で消えてしまったのは、惜しい。

俳優が監督すると、映画としては失敗しても俳優陣が生き生きしている作品になる場合が少なくないが、この映画でも女親分を演じた樋口可南子にびっくり。あの扁平顔と凹凸なき肢体を艶やかに撮っているのだ。樋口可南子の代表作だろう。

もちろん、「映画芸術」ではない。つじつまは合わない。ご都合主義が多々ある。でも楽しい。この反対に、最後まで観ると理屈とつじつまには納得するが場面場面はちっとも楽しくない映画がある。それなら映画でなくとも小説やTVやゲームやマンガで、ちっともかまわなかったというような作品がある。

それらに比べて、勝新の優れた「芸能映画」が貶められるいわれはまったくない。少なくとも、山田洋次より勝新のほうが映画監督としては上等である。映画評論家や映画通の通念とは逆に。それが証拠に、勝新太郎とは分野は違えど比肩する大物役者だった渥美清の演技は、「男はつらいよ」を重ねるごとに楽しい輝きを失っているではないか。

山田洋次監督は、理屈やつじつま合わせを優先させて、場面や役者をストーリーに奉仕させるからだ。たとえば、渥美清が『座頭市』に客演して、滑稽ながら非道なヤクザの親分、あるいは凄腕ながら助平な渡世人、醜女な妻と子沢山を抱えた元師範代の浪人を演じて、勝新との対決を想像してご覧なさい。もうワクワクするほど楽しいではないか。

あるいは、まったく無力な道化や白痴として、つまり寅さんのまま座頭市にからみ悩ませるという役柄でもよい。溌剌とした渥美清が見えるようだ。勝新と渥美清の二人なら、体技という意味で、本当のアクションシーンを見せてくれただろう。もし、山田洋次が「座頭市」を監督したらどうなるか。必ず「水戸黄門」になるはずだ。

つまり、勝新は映画のなかで、オリジナルな人物を造型できる。座頭市はそれまでもそれ以後もいないキャラクターだ。樋口可南子の菩薩の貸元。奥村雄大の五右衛門もそうだ。山田洋次は寅さんを造型したか。いや、寅さんはどうみても渥美清の造型である。笠智衆の御前様は小津安二郎の造型である。山田洋次は商店主や零細企業社長や零細企業労働者とその家族という類型を提出しているに過ぎない。

しかし、映画表現としては人類型などプロパガンダ以外に使いようがないのだ。映画ファンが観たいのは新しい人物造型なのだ。ま、両方やるのが映画監督なのだが、主従はあるのだ。醤油は野田なのだ。

(敬称略)




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