『ロシア 闇と魂の国家』で佐藤優と亀山郁夫が絶賛していたので探していたら、文庫に入っていました。小説とは意外でした。言葉についての論文やかための紀行文を念頭にしていました。例によって、裏表紙の要約は以下の通り。
引用はじめ
1960年、チェコのプラハ・ソビエト学校に入った志摩は、舞踊教師オリガ・モリソヴナに魅了された。老女だが、踊りは天才的。彼女が濁声で「美の極致!」と叫んだら、それは強烈な罵倒。だが、その行動には謎も多かった。あれから、30数年、翻訳者となった志摩はモスクワに赴きオリガの半生を辿る。過酷なスターリン時代を、伝説の踊り子はどう生き抜いたか、感動の長編小説、待望の文庫化。
引用終わり
志摩=万里。自伝的な作品である。志摩はオリガ・モリソヴナによって踊りに眼を開かせられ、日本に帰国してからダンサーをめざすが挫折して、翻訳者になる。なるほど、TVにコメンテーターとして出演していた米原万里さんは、アイシャドウの濃さが目立つ女性でした。外国暮らしが長い日本女性の例に漏れないなと思っていましたが、ダンサー志望に納得。そう、あれは舞台メイクに近い。まだ、1/3しか読んでいないが、自伝的な作品といい切れるのは、たとえば以下のような箇所があるからだ。
引用はじめ
亜紀バレエ団で、藻刈富代が凡庸な才能とバレエには全く不向きな股関節の持ち主にも拘わらずプリンシパルの座を射止めたのは、藻刈の父親が団長の亜紀雅美に都内一等地のリハーサルスタジオをプレゼントした見返りだというのは、すでに日本のバレエ界の常識になっていた。団を維持するための必要悪として団員たちも諦めている。(148頁)
引用終わり
ほとんど実名に近い。ダンスの専門家か、プロのダンサーを志した者以外にはこうは書けないし、書いちゃいけません。ボリショイバレエ団で明らかに才能と技術に劣る日本のバレエダンサーが「金の力」で主役に近い役柄を獲得し、「ブラボー屋」を動員し、喝采を浴びて踊る姿を「同胞として恥ずかしい」と歯噛みする場面描写で、ダメ押しのように出てくるエピソードです。こんな暴露をしては、日本の文芸業界ではうまくありません。ついでに、中村紘子のピアノがどれほど「凡庸」かも書いてくれたら嬉しかったが。
まだ、佐藤優たちが絶賛するほどの小説とは思えない。軽躁気味に流れるところがあるし、「どハンサム」など、受け入れがたい表現もある。ただ、『赤毛のアン』のように、光り輝く少女時代とその友情の交歓には心弾みます。チェコのプラハ・ソビエト学校に集った少年少女たちの背景や個性についてもっと知りたくなりました。また、ガガーリンが初の宇宙飛行に成功し、キューバ危機によって核戦争への恐怖をつのらせた1960年代の時代性についても、もっと書き込んでよかったと思えます。ただそうなると、大長編になってしまうから、分際を知り、営業上の視点から、編集者が許さなかったかもしれません。
クラスメイトの父親が自殺するような、ソ連とその衛星国の恐怖政治の下でも、生徒それぞれの個性を伸ばす教育に奮闘する見識豊かな教師たちがいたのに対して、帰国した志摩はプラハやモスクワよりはるかに政治的な自由がある東京で、個性を圧殺する教師やそれに何の疑問も感じない級友に囲まれて絶望する記述があります。
これが欧米やソ連などの野心ある編集者なら、存分に書き込んだ大長編を許したかもしれません。後で書き直しや削除箇所を指定したとしても。初恋のレオニードの青い瞳の冷たさについて、恋のライバルであるジーナの肢体の美について、カーチャの聡明さについて、シーマチカ(志摩)が何を感じ考えたのか、そうした所感小説の魅力にもっと触れていたい気にさせます。
あるいは、日本共産党幹部でありチェコに赴任した父を中心にした志摩の家庭とその党生活を描けば、国際コミンテルンの理想とスターリニズムの影とが日常というユニークな家庭小説でもあり得たわけです。たった4年間の海外生活に過ぎないのに、それほどに米原さんの感受性を刺激したのは何だったのか、読み進むのが楽しく惜しい。この先に、なぜそんなに筆を急ぐのか、その答えが用意されていればいいのですが。(続く)
引用はじめ
1960年、チェコのプラハ・ソビエト学校に入った志摩は、舞踊教師オリガ・モリソヴナに魅了された。老女だが、踊りは天才的。彼女が濁声で「美の極致!」と叫んだら、それは強烈な罵倒。だが、その行動には謎も多かった。あれから、30数年、翻訳者となった志摩はモスクワに赴きオリガの半生を辿る。過酷なスターリン時代を、伝説の踊り子はどう生き抜いたか、感動の長編小説、待望の文庫化。
引用終わり
志摩=万里。自伝的な作品である。志摩はオリガ・モリソヴナによって踊りに眼を開かせられ、日本に帰国してからダンサーをめざすが挫折して、翻訳者になる。なるほど、TVにコメンテーターとして出演していた米原万里さんは、アイシャドウの濃さが目立つ女性でした。外国暮らしが長い日本女性の例に漏れないなと思っていましたが、ダンサー志望に納得。そう、あれは舞台メイクに近い。まだ、1/3しか読んでいないが、自伝的な作品といい切れるのは、たとえば以下のような箇所があるからだ。
引用はじめ
亜紀バレエ団で、藻刈富代が凡庸な才能とバレエには全く不向きな股関節の持ち主にも拘わらずプリンシパルの座を射止めたのは、藻刈の父親が団長の亜紀雅美に都内一等地のリハーサルスタジオをプレゼントした見返りだというのは、すでに日本のバレエ界の常識になっていた。団を維持するための必要悪として団員たちも諦めている。(148頁)
引用終わり
ほとんど実名に近い。ダンスの専門家か、プロのダンサーを志した者以外にはこうは書けないし、書いちゃいけません。ボリショイバレエ団で明らかに才能と技術に劣る日本のバレエダンサーが「金の力」で主役に近い役柄を獲得し、「ブラボー屋」を動員し、喝采を浴びて踊る姿を「同胞として恥ずかしい」と歯噛みする場面描写で、ダメ押しのように出てくるエピソードです。こんな暴露をしては、日本の文芸業界ではうまくありません。ついでに、中村紘子のピアノがどれほど「凡庸」かも書いてくれたら嬉しかったが。
まだ、佐藤優たちが絶賛するほどの小説とは思えない。軽躁気味に流れるところがあるし、「どハンサム」など、受け入れがたい表現もある。ただ、『赤毛のアン』のように、光り輝く少女時代とその友情の交歓には心弾みます。チェコのプラハ・ソビエト学校に集った少年少女たちの背景や個性についてもっと知りたくなりました。また、ガガーリンが初の宇宙飛行に成功し、キューバ危機によって核戦争への恐怖をつのらせた1960年代の時代性についても、もっと書き込んでよかったと思えます。ただそうなると、大長編になってしまうから、分際を知り、営業上の視点から、編集者が許さなかったかもしれません。
クラスメイトの父親が自殺するような、ソ連とその衛星国の恐怖政治の下でも、生徒それぞれの個性を伸ばす教育に奮闘する見識豊かな教師たちがいたのに対して、帰国した志摩はプラハやモスクワよりはるかに政治的な自由がある東京で、個性を圧殺する教師やそれに何の疑問も感じない級友に囲まれて絶望する記述があります。
これが欧米やソ連などの野心ある編集者なら、存分に書き込んだ大長編を許したかもしれません。後で書き直しや削除箇所を指定したとしても。初恋のレオニードの青い瞳の冷たさについて、恋のライバルであるジーナの肢体の美について、カーチャの聡明さについて、シーマチカ(志摩)が何を感じ考えたのか、そうした所感小説の魅力にもっと触れていたい気にさせます。
あるいは、日本共産党幹部でありチェコに赴任した父を中心にした志摩の家庭とその党生活を描けば、国際コミンテルンの理想とスターリニズムの影とが日常というユニークな家庭小説でもあり得たわけです。たった4年間の海外生活に過ぎないのに、それほどに米原さんの感受性を刺激したのは何だったのか、読み進むのが楽しく惜しい。この先に、なぜそんなに筆を急ぐのか、その答えが用意されていればいいのですが。(続く)