コタツ評論

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クライマーズ・ハイ

2009-04-03 06:37:00 | レンタルDVD映画
「クライマーズハイ」より、NHKのTV版のほうがよかった。ローカルな地方新聞のローカルなサラリーマン根性と強い職業意識が混在する新聞人たちが、全国ニュースの航空機墜落事故に遭遇して、そのローカルぶりがさらに露呈する様を過不足なく描いて、「プロジェクトX」くらいにほどほどの「感動」と「勇気」を与えてくれる。

映画板のほうは、「世界(=映画の世界市場)」を意識したエピソードや展開に難がある。ワンマン社長のセクハラ事件のもみ消しに奔走した社員を「過労死」(Karoshiで海外でも通用する)させたり、唐突にオーストラリアかニュージーランドを主人公が訪れるラストシーンなど、明らかに不要と思える場面に力が入っている。

両作品とも、記者をはじめとする新聞社の社員たちの会社愛と仕事愛が熱く描かれ、肝心の日航機123便が御巣鷹山に墜落した事故の真相や影響については、ほとんど語られない。報道する側の真相や記事が新聞づくりに携わる人々へ与える影響を描くことによって、報道することの意味を問うのが主題だからだ。横山秀夫の原作は読んでいないが、小説ではそうなのだろう。

言葉の意味を追う小説なら、特ダネを握りながら報じない、という逆「プロジェクトX」に至る議論や思考を跡づけることはできる。絵と音が前に出て、言葉が後ろに引く映画では、観ながら考えるのは難しい。観客は観た後に、どんな映画だったのかを考える。そこで映画にも文章の行間や余白と似た、すぐには説明としての意味や効果がはかりかねる、無駄と思える絵や音がある。

失敗すればただの弛緩となり、思わせぶりに終わる。成功すれば、作り手の思考の余韻として響き、余情を味わえる。というのは嘘である。緊密なカメラワークと演技と編集が構築する伽藍に、その数え切れない数の高い柱が並ぶ柱廊に一瞬、心霊写真のように写り込む影、模様、あるいはかすかな声、音鳴り、などは偶然に起きるものであり、あらかじめ仕掛けたり作り込むことはできない。

映画が観客に手渡されてから、それは起こるものだからだ。感じて内面で起こる。そこではじめて映画は映画になる。この地方新聞社を舞台にした「クライマーズ・ハイ」という映画にも、たくさんの説明はあるが、そうした一瞬はなかった。柱廊を疾走していくばかりで、伽藍を仰ぎ見ることはない。柱には影そのものがない。

それでもTV版には、逆「プロジェクトX」の成熟を看取できた。「御巣鷹山プロジェクト」に後一歩の成功まで近づきながら、迷いつつあえて踏み出さない、最後の瞬間に立ち止まる、原作の主題が持つ「プロジェクトX」への批評性を受け止めていた。どこでそれがわかるのか。

車椅子に乗った高齢者である、傲慢この上ない社主(映画版では社長)の怒鳴り声でわかるのだ。広い編集部に乗り込んだ杉浦直樹が、あのすばらしいテノールを響かせ、「報道の、編集権の、と、いったいおまえら何様のつもりだあ!」と何十人もの新聞づくりの猛者たちを黙らせるのだ。電話すら黙る。臆面もない、会社愛・仕事愛を一喝する異物、ジャーナリズムという主義や観念を撃つ現実、その人間的な迫力が圧倒するかけがえのないカタルシスの場面である。

ところが、映画版の山崎努社長は、車椅子をよいことに、介護する女性秘書の身体を執拗に撫で回すセクハラに及び、耐えきれず退職して問題化しようとした女性に社員を遣わせ、もみ消そうとする。往来で土下座までする板挟みの社員は過労死してしまう。むちゃくちゃな会社と社長、社員である。「Karoshi」と世界語になった過労死も、ここまで貶められてはさぞかし驚いたことだろう。

ただでさえ新聞社社員たちの会社愛と仕事愛のナルシズムに鼻白らむのに、それを頭ごなしに罵倒してみせる、車椅子・高齢者・権力という複合カウンターパートの社長に何の正統性もなければ、無意味な「悪役」に過ぎなくなる。「世界」に向けて「Karoshi」を告発する監督自身を売り込むために、ドラマの骨格を台無しにしたとしか思えない。つまりは、世界的な映画監督になりたいという監督の自己愛が重なっているわけで、いっそう鼻白らむ。赤鼻を気にしている人向きだろう。

俳優陣はすべて熱演好演しているが、堤真一より佐藤浩市、山崎努よりはるかに杉浦直樹がよかった。したがってレンタルで観るなら、必ずTV版がおすすめである。

(敬称略)