コタツ評論

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「ねえ、君」

2009-05-20 22:34:00 | レンタルDVD映画


チェ 28歳の革命
あの有名な、ベレー帽をかぶり髭を生やしたチェ・ゲバラが、斜め45度を見上げるポスターは1970年代の日本の若者にとって、まずTシャツの絵柄でした。

聖像を意味するイコンとPC用語のアイコンは、同じiconという言葉です。キリスト教の聖者を象ったイコン(聖像)は信仰を身近に引き寄せるものでしょうが、デスクトップ上のアイコンとは、「ここではないどこか」へ跳ぶための記号です。中南米やアメリカの若者の間では、チェ・ゲバラは革命や抵抗のイコンだったのかもしれませんが、日本をはじめ先進諸国の若者たちの間では、Tシャツの上で色抜きされたり、反転されたゲバラの肖像は、革命という冒険に連れていってくれるアイコンだったように思えます。

この映画は、イコンやアイコンになる前、革命を志す28歳の無名の青年としてゲバラを描こうとしています。まだ美術学校学生時代のジョン・レノンが、「世界で一番カッコイイ男」と思ったくらいなのに、どちらかといえば醜男のベニチオ・デル・トロがゲバラ役に起用されたわけです。

1959年のハバナ陥落までの戦場のゲバラと、1964年に国連演説に向かうゲバラの姿を交互に描く構成です。クライマックスは、「祖国か死か」という激しい決意の言葉で締められるゲバラの国連総会における演説です。ただし、議場は空席が目立つ寒々しいものです。肝心のアメリカの国連大使は欠席しています。

キューバのゲバラの場面はカラーですが、このニューヨークのゲバラはモノクロです。一般的に、モノクロは後景に引かせ、カラーは前景に出す仕掛けです。昔のピンク映画が濡れ場になるとカラーになったのと同じです(カラーフィルムが高価だったというコスト削減の意図もありますが)。回想シーンはモノクロ、現実に戻るとカラーなど、時制を見せるときにも使われます。キューバのゲバラより、ニューヨークのゲバラの方が後年ですから、この映画では逆です。国連で演説するまでに歴史的な人物となったゲバラと、伝説に彩られる前の等身大のゲバラを分けて見せるためと、私は思いました。

映画の最後はこんな風に終わります。
陥落したハバナに向かう軍用ジープにゲバラは乗っています。「反政府軍」から「革命軍」になった兵士たちのトラックの列が続きます。見送る沿道のキューバ人たちは歓喜して手を振っています。そこへ真っ赤なアメリカ製のオープンカーがゲバラのジープを追い抜いていきます。座席で歓声を上げているのは、ゲバラの部下たちでした。ゲバラは、オープンカーを止めるように命じます。
歩み寄ったゲバラは尋ねます。
「この車はどうしたんだ?」
「政府軍の兵士の車をぶんどってきたんです」
「すぐに返してこい。そして、お前たちは歩くか、バスを探してハバナにくるんだ」
真っ赤なオープンカーはUターンして戻っていきます。それを見送りながら、ゲバラはつぶやきます。
「まったく、信じられない」

あきらかに、国連演説の「祖国か死か」に対比させる、人間くさいつぶやきです。芥川龍之介がレーニンを謳い上げた言葉をもじれば、「誰よりも革命を願った君は、誰よりも革命を信じなかった君だ」、というわけで、後編の『チェ 38歳の別れ』に続きます。革命後のキューバをに別れを告げ、ボリビアにゲリラとして潜入するのです。

ゲバラは、ローカルでマイナーな革命家でした。革命から50年を経た現在も、キューバは貧しく小さな後進国です。革命戦争に勝利したといっても、ほとんど山賊規模の戦闘に過ぎず、この映画でも戦闘場面は出てきますが、昨日まで農民だった未熟な「反乱軍兵士」を率いて、ジャングルと山岳地帯をうろうろ歩く、司令官ゲバラの淡々とした日常が綴られていきます。

したがって、この映画の公式サイトやほかの紹介サイトのゲバラの形容には、少し驚きました。いわく、「20世紀最大の革命家」「革命のカリスマ的存在」「革命の英雄」など、です。少なくとも70年代の常識では、「20世紀最大の革命家」は、あきらかにロシア革命を指導したレーニンです。「革命のカリスマ的存在」というなら、全世界にマオイストを生んだ毛沢東です。「革命の英雄」も、中南米でのことなら、メキシコ革命のパンチョ・ビラが筆頭です。彼らこそ、間違いなく革命の「イコン(聖像)」だといえるでしょう。

1959年、ゲバラはキューバの経済使節団団長として来日しています。ほとんど報道されませんでした。このとき、ゲバラは、「日本の経済発展はすばらしいが、この国の若者の瞳には希望の輝きがない」と語ったと伝えられています。『ゲバラ日記』はよく読まれましたが、70年代の過激派学生の間では、『都市ゲリラ教程』なんて本が読まれていました。伝説の革命家として有名でしたが、ゲバラはすでに過去の人でした(70年代というのは、多くの著名人が「過去の人」になった転換期でした。いまから思えば)。フォークの岡林信康がキューバ革命支援のために、砂糖キビ刈りのボランティアツアーに参加したことが話題になったりするくらいでした(このイベントが岡林信康を「過去の人」にしたきっかけのひとつでした)。

ではなぜ、いまゲバラなのか。後編の『チェ 38歳の別れ』を観ていないのにいってしまえば、同時代のある人物を私たちが想起するからではないかと思います。裕福な家に生まれた知的なハンサムなのに、病弱な身体で厳しいゲリラ生活に明け暮れ、欧米という「世界」を敵に回して一歩も退かない、人物です(彼が実際にそのような人物であるかと関係なく、そう伝えられ、信じられていることが重要です。ゲバラと同様に)。

映画は、農民への略奪暴行を厳しく禁じる司令官ゲバラを描きます。たとえ志願してきても少年を兵士とすることを拒否するゲバラを描きます。しかし、私たちの世界の現実は、これとはまったく逆です。村を襲い農民を虐殺した上に、子どもを拉致して兵士として殺人を強制するアフリカの「反政府ゲリラ」の存在を知っています。少年兵士に残虐なbeheadingをさせて、ビデオ配信するイスラムの「反米ゲリラ」を知っています。

つまり、この映画におけるゲバラとは、私たちの現実の影なのだと思えます。あるいは、私たちの現実こそがゲバラの影なのだ、と言い換えることもできます。失われた過去と未来に、強い日射しを浴びた人の長く伸びた影です。この映画を観るとき、私たちはチェ・ゲバラとオサマ・ビン・ラディンの影像を見ている、といえば穿ちすぎでしょうか。

(敬称略)
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朝には紅顔ありて 夕には白骨となれる身なり

2009-05-20 10:57:00 | ノンジャンル
昨日、3匹の仔猫がやってきた。よりによって、上の階の猫嫌いのベランダに産み落とされていたそうだ。父母猫は見知っている。隣の公園をもぶれつきながら、歩いているのをよく見かけた。ようやく眼が開くかどうかだから、生後10日くらいか。そのうちの一匹が夕方死んだ。雨に濡れていたせいだろうか。あっという間だった。駐輪場の隅の土に埋めた。名前はない。白が多く赤茶の斑点があった。たぶん、雄だろう。

「朝には紅顔ありて」は、蓮如上人の言葉だそうだ。通俗なものだ。「朝には桃色の鼻と黒濡れた瞳ありて」だった。絶息するまで、膝に置いていた。ホットカーペットを強にしているので、汗をかいた。残った2匹のうち、三毛の雌は貰い手が決まってる。赤白はこのまま育てるしかないだろう。

今朝、新聞をめくると、頼近美津子太田龍が亡くなっていた。

頼近美津子は、結婚して子どもを得たときに、「国際人に育てるために、英語が学べるアメリカンスクールに入れます」と談話したそうで、いまだに、あちらこちらの教育関係や日本語見直し本で、この発言が引用されるのは気の毒だった。

頼近キャスリーン美津子という名の通り、父親が日系米人というルーツなのだから、彼女にとっては自然な教育観だったのだろう。これがたとえ、福島の農家の息子と亀戸の水道屋の娘が結婚して、「国際人、英語、アメリカンスクール」と子どもの進路を自慢したとしても、従来の「国立大付属か有名私立小へ入れてエリートに」とほぼ同質なのだから、批難できる人は少ないはずだ。

もちろん、世間の人たちもそんなことは承知の上で、「浅薄なセレブ」と嫉妬と自嘲をまじえて笑ったわけだが、そうした批評的な受容のいっさいを無視して、たとえば、最近話題の水村美苗の
まず、頼近美津子はこの発言時、アナウンサーを退職して専業主婦となり公人ではなかった。個人として、自分の子どもの将来について希望を語ったに過ぎないのだから、誰も咎め立てすることはできないはず。また、戦後の日本人は、アメリカとアメリカ人へ憧れる欲望を広く共有してきたし、少なくとも、ついこの間まで、「アメリカ人のような日本人になりたい」という立身出世がオーソライズされていたことは、羞恥の事実だろう。

つまり、日本語VS英語、あるいは国際語とは何か、という「言葉」をめぐる問題とは、別であることは自明なのだ。それを知っていながら、頼近の「国際人、英語、アメリカンスクール」発言を、日本の英語化という文脈で取りあげるなら、牽強付会という以上に、そうまでして事例を探すほど台所事情が苦しいのかと思えてしまう。

知らずに取りあげたなら、世間のたいていの人は、フジサンケイグループの総帥に嫁いだ「玉の輿」に舞い上がったのだろう、くらいに生温かく見守っていたのだから、ただの世間知らずということになる。あるいはこうした、ちょっと見には高邁な「言葉」論議に、下世話な話題を引くことで、ただ読みやすくしたいと考えたのかもしれない。だとすれば、よけいなお世話である。

もちろん、「国際人、英語、アメリカンスクール」は、露骨に覇権主義的である。しかし、「英語よりまず日本語を」とか、「英語グローバリズムに反対」なども、じゅうぶんに特権的な言説であり、権力的になり得ることを弁えなければ、とてもバランスのとれた論議とはいえない。少なくとも、我々には、台湾や韓国など旧植民地において、もっと遡れば沖縄やアイヌに同化政策の下で、日本語を強制してきた歴史的事実がある。

そうした過去を清算して、とまではいわないが、眼中にないかのごとく、被害者や弱者のような、イノセントな日本語を想定してもらっては困るのだ。もし、そうした反動が許されるなら、そのときこそ、「日本語が亡びるとき」だろう。あるいは、日本語を見直すことによって、つまりあり得べき日本の時代や場所を固定することによって、何か日本人としての帰属性を確認したいということかもしれない。「日本人のような日本人になりたい」という欲望の表現として、「日本語のような日本語でありたい」なのかもしれない。

「日本人のような日本人になりたい」と「アメリカ人のような日本人になりたい」という欲望は、等しく自家撞着であり、見えない天井に閉ざされている。日本語という言葉は、天井も床もないからこそ、成り立ってきたはずなのだ。タミル語起源説、漢字の輸入、オランダ語の習得、欧米書の夥しい翻訳、カタカナ語の頻出、最近の携帯メールの絵文字まで、めまぐるしい変化こそ日本語だろう。日本語が変化したのではなく、変化してきた言葉が、結果的に今日、日本語と呼ばれているのではないか。

「日本人が培ってきた豊かな日本語」などという、安い手で上がってはいけない。「豊かな日本語が培ってきた日本人」という、さらに安い手で上がってもいけない。

追悼画面に出てくる近年の頼近美津子の衣装は、<a href="http://oukai.etc.gakushuin.ac.jp/gakubukai/tokiwakai/"><span style="color:blue">常磐会
ファッションに似て、ひどく野暮ったい。高い手で上がろうとするから野暮になる。下りてしまえばよかったのに、と思った。

太田龍はたとえ死んでも、「立派な人だった」とは誰もいわないだろうな。それはそれで、たいしたものかもしれない。

はじめてのウンチを三毛がした。ウンチが出るまでは安心できない。よかった。

(敬称略)
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