この人の本を読んでいるとき、少し気恥ずしい。何だろう。ちょっとした謎である。
「普通の人」の哲学-鶴見俊輔 態度の思想からの冒険 (上原 隆 毎日新聞社)
私の結論から。
沢木耕太郎や猪瀬直樹より、上原隆のほうが上等。後世に残るだろう。
上原隆という人の本については以前にも書いた。
本書は彼のはじめての著作らしい。1990年の刊行である。仲間との同人誌に書いていたのを毎日新聞の編集者が目を付け、同社の<知における冒険>シリーズの一冊として出版された。以下のように、ほかの著者はみな著名な学者や作家ばかり。
① 哲学の冒険 (内山 節)
② 現代思想の冒険 (竹田 青嗣)
③ 冒険としての社会科学(橋爪 大三郎)
④ 実存からの冒険 (西 研)
⑤「普通の人」の哲学 (上原 隆)
⑥ 冒険としての自然科学(池田 清彦)
⑦ ユートピアの冒険 (笠井 潔)
80年代のほぼ10年間を費やしてこの本を書いたという上原隆は、当時、零細PR映画会社のサラリーマン。職業的な物書きではなく、職業的な物書きになりたいとは思っておらず、職業的な物書き以外の方法論をもって、以上の仕事をするという意味で、アマチュアである。
帯や目次をみればわかるように、入門書やレクチャー本ではない。本を読み、覚えがあることや考えたことを書きつける、読書ノートに似ている。「食うための仕事」の合間といえども、10年間におよぶ学習と考え続けた時間が、独自の方法論を見出した。<私>から<読者>へ向かう<報告>を「私ノンフィクション」というらしいが、<私>から<私>へ向かう<報告>が<読者>に開かれている、「私ルポルタージュ」である。鶴見俊輔をどう読んだか、何を学んだか、どう変わったのか、日々の生活にどう活かしたか、という上原隆から上原隆への報告を読者は知る。
帯① 「私もスーパー行ったり、つくったり、洗ったりをずっとやっているし、『--さん』と誰に対しても言ってるし、似た人がいるなあと思っています。とても共感できる。」山田太一(「岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」などTVドラマの脚本家・作家)
帯②
ポップな哲学誕生
本書は、鶴見俊輔の
全仕事を態度の思想と
してつかんだ見とり図
と、態度の思想を自分
の体験で試してみる
実技からなりたってい
る。
やさしくて、役に立
つ、みんなの哲学デス。
(折り返しは元文のまま)
目次
はじめに 私をつかむために
(『フラッシュダンス』から『インディ・ジョーンズ』へ)
第一章 鶴見俊輔の思想
一、思想観
二、仕事
(哲学、コミュニケーション、大衆芸術、自分、政治、伝記、歴史)
三、個人史
(架空インタビュー)
第二章 私の体験から
一、信念
二、態度
(吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』を参考に)
三、生活術
(ルポルタージュ)
おわりに 八〇年代の美意識を持って
(ボブ・グリーン、村上春樹、ロバート・B・パーカー達の世界)
山田太一が帯でいうところの、「スーパーに買い物に行く、料理を作る、洗濯物を洗う、年下や部下でも、呼び捨てや君呼ばわりはせず、誰にも何々さんと呼びかけること」、それが上原隆の「日々の生活にどう活かしたか」の具体なのである。「なあーんだ」と笑うのは、読んでからにしてほしい。
43字×17行×236頁÷400字=431枚。薄手といえる分量である。鶴見俊輔の文章をはじめ、行間を空けた引用が多いから、実際は400枚を切るかもしれない。わずか126頁の第一章で、鶴見俊輔の膨大な仕事と思想について「見取り図」を描いて整理している。職業的な物書きや熱心なファンくらいでは、こんな思い切ったことはできない。
「十五年戦争」という呼称をはじめたのが鶴見だったように、戦後の大衆芸能やマンガをはじめとする大衆文化の調査・分析など、今日当たり前となっていることの多くに、鶴見が先鞭をつけていることにあらためて驚く。「戦後思想界の巨人」といわれる吉本隆明についてなら、たくさんの研究書が出ているが、戦後思想への影響としては鶴見の方が上ではないか、と思った。
そして、<私>の欲も得もない主題への迫りかたが、第二章から展開する。その極私的な方法論によって、<私>の解体と再生(の途上)が描かれるというのではなく、<私>という方法論そのものが、そこにある。だから、<私>について語りながら、饒舌は感じない。鶴見俊輔を通して私についてあなたに語っている私、という動作である。文章はあくまでも平易だが、この人はこういう書き方しか、しない、できない、という本当の文体がある。
ただし、難はある。たぶん編集者が書いたのだろうが、帯②の折り返しがひどい。「と、」「つ、」と2字目に句読点を打ったり、「る。」で一行使ったり、無神経極まる。「みんなの哲学デス」の「デス」のくだらない自意識。上原隆という大変な新人を発掘した慧眼の編集者のはずなのに、いったいどうしたわけか。
(敬称略)