先に、アジア最凶俳優の筆頭に韓国のチェ・ミンシュクを上げました。筆頭にしたのは早過ぎました。チェ・ミンシュクに勝るとも劣らない逸材が、オーストラリアから出たからです。「Snowtown(2011) 」のダニエル・ヘンシュオール(Daniel Henshall)です。TUTAYAの準新作コーナーにあります。
11人のホモセクシャルや少年愛者を拷問して殺した、殺人グループの実話に基づいた作品です。主犯のジョン(ダニエル・ヘンシュオール)は、彼らを「子どもを狙うクズ」「殺してしまえ」としますが、小学校の校庭で遊ぶ子どもらを眺めながら、ポケットに突っ込んだ手で自慰したりするような、被害者のほとんどは無害で弱々しい性的マイノリティに過ぎなかったようです。
ジョンを絶対的なリーダーとする、4人のホモ狩りグループは、周辺に女性や女装した中年の「オカマ」をも抱えた、疑似家族共同体をつくっています。貧乏白人ながら、家を持ち、家庭があり、半端仕事をしているか、政府の援助で暮らしている下層階級です。単独犯や相棒と犯行を繰り返す、いわゆる連続殺人鬼(シリアルキラー)とはかなり違います。
色白ポッチャリのダニエル・ヘンシュオール。
ホモフォビアによるヘイトクライムかといえば、ジョンを除けば、なんとか識字能力がある程度、レイシストといえるほどの知性もなさそうです。だらしなくソファに足を投げ出して座り、くだらぬTV番組を観るくらいしか、時間つぶしを知りません。ジョンにしても政治的、文化的な言説の持ち合わせなどなく、威圧的に注視して黙らせるだけです。
この見つめるジョンが恐い。怒鳴ったり、怒った表情すらほとんど見せず、顧客に保険の説明をはじめようとするセールスマンのように、いつもにこやかで紳士的です。女性や子どもには優しく接し、冗談や悪戯好きで快活に笑い、誰からも好かれます。ただ、ハンサムといえる顔に強く光る黒い瞳が、ひたと注がれるとき、ほとんど瞬きしません。静かに強く見つめます。
犯行グループの男たちだけで過ごしているときは、ホモジーニアスなホモ集団のようにも見えます。それを象徴するような食事シーンが頻繁に挿入されます。狩りを始める前、狩りを終えた後、狩りと狩りの間、自宅で安食堂で、彼らはよく食事をともにします。ポテト、ニンジン、グリーンピースを付け合わせに、グレービーソースがけの肉といったワンプレートディナーです。
誰もが黙々と、ナイフとフォークと口を動かしています。味を楽しむというより空腹を満たす食事です。ときおり誰かれに向けた手短な言葉を挟みながら、手際よく切り分けて口へ運び、手早く咀嚼して呑み込むジョンの様子が、途中から拷問して悶死に至るまでの手順をなぞっているように思えてきます。あるいはジョンが噛み唾液にくるみ舌に載せているのは、じつは人肉ではないかと。
もちろん、そんなことはないのですが、ジョンにとっては、「変態」である、多様な性癖を持つ、つまり興味関心の幅が広い彼らを、ただの一片の肉に「均質化」すること、それが究極の目的だった。そう思えてきます。年若い新入りを仲間にしたとき、ジョンはいっしょにバリカンを使い坊主刈りになって、屈託なく笑い合います。差別集団というより原初的で、種族的に思えます。
人間はたやすく暴力に屈する。行使される者だけではなく、行使する者にとっても、それは同じことではないかとだんだんに思えてきます。ジョンたちは、仕事のように、兵士のように、仲間の「オカマ」から町に住むホモたちの住所を聞き出し、狩りの計画を立て、誘い出し、重い道具の入ったバッグを用意し、待ち構え、隠蔽工作のために録音します。
衝動的ではなく、怒りに高ぶるのでも、悦びに震えるのでもなく、男たちは淡々と手順に従い暴力を進行させていきます。暴力に淫するところはなく、職人が仕事をするように、兵士が行軍するように、日々の中心を占めています。狩りをしていないときは、ただ狩りと狩りの間なのです。
ヘイトクライムやシリアルキラーといった分類には落とし込めず、かといって、前近代的な捕食本能に帰することもできない。社会的というなら家族的、個人的というなら共同体的、病的というなら実務的、そんな名付けようのない殺人と冷酷の記録です。それを主導した不可解な人物を、けっして戯画化されない悪を、好男子ジョンを、ダニエル・ヘンシュオールは体現しました。
この映画は潔癖なほど、ジョンたちに正当性を与えません。理解は促されるべきという「政治的に正しい」語法をを使いません。「実話に基づく」という限界が、罪と人を分かつとする限定をはずしたのかもしれません。ゴールドコーストとカンガルーの国にも、寒々しい Snowtown があるように、私たちのよき隣人ジョンは、どこにでもありふれた男なのです。
ダニエル・ヘンシュオールに圧倒されて、ほとんど突っ込みどころが見つけられなかったのですが、働きに出る母親が隣近所の男に子守を頼む慣行がよくわかりませんでした。ジョンも子守を快く引き受けて、新入りになる少年と仲良くなるのですが、長男18歳、次男の少年は15歳、その弟は12歳という3兄弟です。
子守を引き受けた男は、母親の代わりに子どもたちに目配りをし、夕食を作って食べさせるのです。上二人は大人と変わりない体格なのに、どうして子守が必要なのか、12歳の末弟にしろ、飯くらいは作れるだろうに。それもどうせ、フライパンで冷凍の野菜を温めて、肉を焼いてソースをかけたくらいの一皿料理なのだから。そこが不思議でなりませんでした。
「凶悪」のリリー・フランキーが、チェ・ミンシュクやダニエル・ヘンシュオールの怖さにどこまで迫るのか、期待しています。
(敬称略)
11人のホモセクシャルや少年愛者を拷問して殺した、殺人グループの実話に基づいた作品です。主犯のジョン(ダニエル・ヘンシュオール)は、彼らを「子どもを狙うクズ」「殺してしまえ」としますが、小学校の校庭で遊ぶ子どもらを眺めながら、ポケットに突っ込んだ手で自慰したりするような、被害者のほとんどは無害で弱々しい性的マイノリティに過ぎなかったようです。
ジョンを絶対的なリーダーとする、4人のホモ狩りグループは、周辺に女性や女装した中年の「オカマ」をも抱えた、疑似家族共同体をつくっています。貧乏白人ながら、家を持ち、家庭があり、半端仕事をしているか、政府の援助で暮らしている下層階級です。単独犯や相棒と犯行を繰り返す、いわゆる連続殺人鬼(シリアルキラー)とはかなり違います。
色白ポッチャリのダニエル・ヘンシュオール。
ホモフォビアによるヘイトクライムかといえば、ジョンを除けば、なんとか識字能力がある程度、レイシストといえるほどの知性もなさそうです。だらしなくソファに足を投げ出して座り、くだらぬTV番組を観るくらいしか、時間つぶしを知りません。ジョンにしても政治的、文化的な言説の持ち合わせなどなく、威圧的に注視して黙らせるだけです。
この見つめるジョンが恐い。怒鳴ったり、怒った表情すらほとんど見せず、顧客に保険の説明をはじめようとするセールスマンのように、いつもにこやかで紳士的です。女性や子どもには優しく接し、冗談や悪戯好きで快活に笑い、誰からも好かれます。ただ、ハンサムといえる顔に強く光る黒い瞳が、ひたと注がれるとき、ほとんど瞬きしません。静かに強く見つめます。
犯行グループの男たちだけで過ごしているときは、ホモジーニアスなホモ集団のようにも見えます。それを象徴するような食事シーンが頻繁に挿入されます。狩りを始める前、狩りを終えた後、狩りと狩りの間、自宅で安食堂で、彼らはよく食事をともにします。ポテト、ニンジン、グリーンピースを付け合わせに、グレービーソースがけの肉といったワンプレートディナーです。
誰もが黙々と、ナイフとフォークと口を動かしています。味を楽しむというより空腹を満たす食事です。ときおり誰かれに向けた手短な言葉を挟みながら、手際よく切り分けて口へ運び、手早く咀嚼して呑み込むジョンの様子が、途中から拷問して悶死に至るまでの手順をなぞっているように思えてきます。あるいはジョンが噛み唾液にくるみ舌に載せているのは、じつは人肉ではないかと。
もちろん、そんなことはないのですが、ジョンにとっては、「変態」である、多様な性癖を持つ、つまり興味関心の幅が広い彼らを、ただの一片の肉に「均質化」すること、それが究極の目的だった。そう思えてきます。年若い新入りを仲間にしたとき、ジョンはいっしょにバリカンを使い坊主刈りになって、屈託なく笑い合います。差別集団というより原初的で、種族的に思えます。
人間はたやすく暴力に屈する。行使される者だけではなく、行使する者にとっても、それは同じことではないかとだんだんに思えてきます。ジョンたちは、仕事のように、兵士のように、仲間の「オカマ」から町に住むホモたちの住所を聞き出し、狩りの計画を立て、誘い出し、重い道具の入ったバッグを用意し、待ち構え、隠蔽工作のために録音します。
衝動的ではなく、怒りに高ぶるのでも、悦びに震えるのでもなく、男たちは淡々と手順に従い暴力を進行させていきます。暴力に淫するところはなく、職人が仕事をするように、兵士が行軍するように、日々の中心を占めています。狩りをしていないときは、ただ狩りと狩りの間なのです。
ヘイトクライムやシリアルキラーといった分類には落とし込めず、かといって、前近代的な捕食本能に帰することもできない。社会的というなら家族的、個人的というなら共同体的、病的というなら実務的、そんな名付けようのない殺人と冷酷の記録です。それを主導した不可解な人物を、けっして戯画化されない悪を、好男子ジョンを、ダニエル・ヘンシュオールは体現しました。
この映画は潔癖なほど、ジョンたちに正当性を与えません。理解は促されるべきという「政治的に正しい」語法をを使いません。「実話に基づく」という限界が、罪と人を分かつとする限定をはずしたのかもしれません。ゴールドコーストとカンガルーの国にも、寒々しい Snowtown があるように、私たちのよき隣人ジョンは、どこにでもありふれた男なのです。
ダニエル・ヘンシュオールに圧倒されて、ほとんど突っ込みどころが見つけられなかったのですが、働きに出る母親が隣近所の男に子守を頼む慣行がよくわかりませんでした。ジョンも子守を快く引き受けて、新入りになる少年と仲良くなるのですが、長男18歳、次男の少年は15歳、その弟は12歳という3兄弟です。
子守を引き受けた男は、母親の代わりに子どもたちに目配りをし、夕食を作って食べさせるのです。上二人は大人と変わりない体格なのに、どうして子守が必要なのか、12歳の末弟にしろ、飯くらいは作れるだろうに。それもどうせ、フライパンで冷凍の野菜を温めて、肉を焼いてソースをかけたくらいの一皿料理なのだから。そこが不思議でなりませんでした。
「凶悪」のリリー・フランキーが、チェ・ミンシュクやダニエル・ヘンシュオールの怖さにどこまで迫るのか、期待しています。
(敬称略)