日本の新聞は読んだり読まなかったりになって久しい。一方、朝鮮日報や人民日報には必ず目を通すようになった。それはなぜだろうかと考えてみる。
日本の新聞が当然備えている情報や視点が、朝鮮日報や人民日報には欠如している場合が多いのに、前者は読む気にならず、後者は読むのを止められない。
彼我の違いを探してみると、とても賛同はできず過剰に思えることも多いが、朝鮮日報や人民日報の長文記事には、主義主張にくわえ国民感情があることに気づく。
日本の場合はどうだろう。新聞・雑誌、TVなどには、A.主義・主張・国民感情のどれもがない B.主張はあるが主義はない C.主義はあるが主張はない という3種に思える。
日本の主義主張とは何か、考えれば膨大な問題になるが、どうもなさそうに思える記事や番組、たとえあったとしても脆弱なものに過ぎないと思える事例には、実感としては事欠かないのではないだろうか。
また、国民感情に訴える記事が見当たらない。これもまた、定義するのはきわめて難しいが、日本のマスメディアに接して、これまで一度として腑に落ちた覚えがない。マスメディアからは蔑視されることの多い国民感情の一部を、一部のネットが汲み取っているように思える。
少なくとも、こんな風にはいえないだろうか。私たちは無いものを有るかのように見ることはできない。けれども、よそに有るものを通して、いまここに無いもの、かつて有ったものに気づくことはできる。当たり前のことをご大層にいうようで恐縮だが。
以下は、主義・主張・国民感情を備えた、韓国の大手紙のひとつ中央日報の名文社説です。
【社説】この地に「問題解決型の民主主義」はないのか=韓国
定義を独占したような双方の過剰な信念の中から、問題自体を解決してみるという責任感はなかなか見出せなかった。
この地で、原則と闘争をこえた「問題解決型の民主主義」は不可能なことなのだろうか。
選挙は勝利の論理が支配するが、政治は傾聴の論理がさらに貴重だ。
民主主義は制度であり、歴史であり、態度でもある。法と原則の民主主義が制度ならば、闘争と社会運動圏の民主主義は歴史であろう。
韓国の民主主義を態度としての民主主義、問題解決型の民主主義に進展させる議論を始めなければならない時だ。
日本にもそのまま当てはまる気もするし、当てはまらないという思いもします。しかし、「問題解決型の民主主義に進展」には、同意同感です。
では、日本の民主主義の制度と歴史、そして、「態度」とはいかなるものか、とりあえず来年2月の都知事選が試金石となることは間違いなさそうです。
新聞記者がインタビュー相手に、「もしかして、御用学者と呼ばれていませんか?」「苛立っていませんか?」と訊き、その態度の悪さが評判となっている記事です。
(今こそ政治を話そう)秘密法とどう向き合う 憲法学者・長谷部恭男さん(朝日新聞デジタル)
この記者の口ぶりは、まさに朝鮮日報社説が指摘した「闘争と社会運動圏の民主主義」に当てはまります。また、私的分類でいえば、前述のA.B.Cすべてという混合型です。
記者に主義や主張、国民感情らしき背景はあるのでしょうが、あまりに類型的か脆弱な論理に思えて、あるかなきか困惑させる印象です。
このような「民主主義の態度」では、とても今後の状況には抗しえないでしょう。えっ、お前の「意思ばてろ発言に軍ぐつのヒッキー」も似たようなもんだとおっしゃる? はい、他山の石とすべきでしょうね。
日本の新聞が当然備えている情報や視点が、朝鮮日報や人民日報には欠如している場合が多いのに、前者は読む気にならず、後者は読むのを止められない。
彼我の違いを探してみると、とても賛同はできず過剰に思えることも多いが、朝鮮日報や人民日報の長文記事には、主義主張にくわえ国民感情があることに気づく。
日本の場合はどうだろう。新聞・雑誌、TVなどには、A.主義・主張・国民感情のどれもがない B.主張はあるが主義はない C.主義はあるが主張はない という3種に思える。
日本の主義主張とは何か、考えれば膨大な問題になるが、どうもなさそうに思える記事や番組、たとえあったとしても脆弱なものに過ぎないと思える事例には、実感としては事欠かないのではないだろうか。
また、国民感情に訴える記事が見当たらない。これもまた、定義するのはきわめて難しいが、日本のマスメディアに接して、これまで一度として腑に落ちた覚えがない。マスメディアからは蔑視されることの多い国民感情の一部を、一部のネットが汲み取っているように思える。
少なくとも、こんな風にはいえないだろうか。私たちは無いものを有るかのように見ることはできない。けれども、よそに有るものを通して、いまここに無いもの、かつて有ったものに気づくことはできる。当たり前のことをご大層にいうようで恐縮だが。
以下は、主義・主張・国民感情を備えた、韓国の大手紙のひとつ中央日報の名文社説です。
【社説】この地に「問題解決型の民主主義」はないのか=韓国
定義を独占したような双方の過剰な信念の中から、問題自体を解決してみるという責任感はなかなか見出せなかった。
この地で、原則と闘争をこえた「問題解決型の民主主義」は不可能なことなのだろうか。
選挙は勝利の論理が支配するが、政治は傾聴の論理がさらに貴重だ。
民主主義は制度であり、歴史であり、態度でもある。法と原則の民主主義が制度ならば、闘争と社会運動圏の民主主義は歴史であろう。
韓国の民主主義を態度としての民主主義、問題解決型の民主主義に進展させる議論を始めなければならない時だ。
日本にもそのまま当てはまる気もするし、当てはまらないという思いもします。しかし、「問題解決型の民主主義に進展」には、同意同感です。
では、日本の民主主義の制度と歴史、そして、「態度」とはいかなるものか、とりあえず来年2月の都知事選が試金石となることは間違いなさそうです。
新聞記者がインタビュー相手に、「もしかして、御用学者と呼ばれていませんか?」「苛立っていませんか?」と訊き、その態度の悪さが評判となっている記事です。
(今こそ政治を話そう)秘密法とどう向き合う 憲法学者・長谷部恭男さん(朝日新聞デジタル)
この記者の口ぶりは、まさに朝鮮日報社説が指摘した「闘争と社会運動圏の民主主義」に当てはまります。また、私的分類でいえば、前述のA.B.Cすべてという混合型です。
記者に主義や主張、国民感情らしき背景はあるのでしょうが、あまりに類型的か脆弱な論理に思えて、あるかなきか困惑させる印象です。
このような「民主主義の態度」では、とても今後の状況には抗しえないでしょう。えっ、お前の「意思ばてろ発言に軍ぐつのヒッキー」も似たようなもんだとおっしゃる? はい、他山の石とすべきでしょうね。