下は某大学教授のツイッターからの引用です。この教授についてまったく知らないが、教育勅語をめぐる典型的な言説のひとつではないかと思います。
「良いことも書いてある」から道徳の教材に使うことも否定しない、と言われる教育勅語ですが、そもそもこの文書はたんなる「道徳訓」ではありません。教育勅語の核心的な中身は、「もし天皇の身と地位に何かあれば、臣民である国民は命をかけて戦いなさい」というところにあるのです。
残念ながら、ほとんど全行にわたって頷けません。
>「良いことも書いてある」からと言われる教育勅語
たいていの場合、政府自民党の議員や要職から、「教育勅語には良いことも書いてある」といった発言が出て、野党や新聞マスコミなどがこれに反発するという前景があります。
教育勅語が出されたのは1890年、127年前です。自民党政治、および今日に至る政治体制が確立したとされる1955年体制から62年を経てもなお、「良いことも書いてある」という倫理道徳に関わるテキストを生み出せなかった背景があります。
換言すれば、我が国の選良、なかんずく、政治指導者の多くが国民道徳を蔑ろにしてきたか、少なくとも無関心を続けてきたとしか考えられません。
とすれば、127年前の「道徳訓」をひっぱり出す方はもちろん、それを批判する野党やその同伴者である朝日新聞なども、国民道徳を云々する資格はないと言わざるを得ません。
また、道徳訓として「良いことも書いてある」から今日でも有用であるというなら、まず、現在、国民間から道徳が地を払っている証拠を提示しなければなりません。
先進国中、もっとも治安がよい国のひとつであり、殺人など重大犯罪についても、とりわけ若年層で減少している我が国のいったいどこの誰に、道徳が必要とされているのか、説得力ある事例やデータを出さなければなりません。
>「もし天皇の身と地位に何かあれば、臣民である国民は命をかけて戦いなさい」
たいていの場合、野党や新聞マスコミなどが教育勅語を批難するときに、指摘されるのがここです。教育勅語は「良いことも書いてある」が、「核心的な中身」がこれだからダメなのだということです。
127年前、明治天皇が金正恩のような独裁者で大日本帝国が現在の北朝鮮のような国であったのなら、この指摘は頷けるものであり、同時に今日ではとうてい受け入れることはできない一文です。
最近、作家の高橋源一郎さんが教育勅語を現代語訳しましたが、これにも同様な記述がありますので、この機会に通読してみてください。
高橋源一郎 (@takagengen) | Twitter
https://twitter.com/takagengen/
①「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね」
②きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです
③「その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと」
④「そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません」
⑤「もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください」
⑥「というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです
⑦「いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです」
⑧「そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。以上! 明治二十三年十月三十日 天皇」
高橋源一郎さんの文学エッセイは愛読してきたのですが、この現代語訳にはやはりまったく頷けません。教育勅語には、こんなことは書かれていない、と言いたいくらいです。では、教育勅語の原文を以下に引きます(漢文調の名文のリズムを損なわないために、ルビを併記しています)。
朕ちん惟おもうに、我わが皇祖こうそ皇宗こうそう、国くにを肇はじむること宏遠こうえんに、徳とくを樹たつること深厚しんこうなり。我わが臣民しんみん、克よく忠ちゅうに克よく孝こうに、億兆おくちょう心こころを一いつにして、世世よよ厥その美びを済なせるは、此これ我わが国体こくたいの精華せいかにして、教育きょういくの淵源えんげん、亦また実じつに此ここに存そんす。爾なんじ臣民しんみん、父母ふぼに孝こうに、兄弟けいていに友ゆうに、夫婦ふうふ相あい和わし、朋友ほうゆう相あい信しんじ、恭倹きょうけん己おのれを持じし、博愛はくあい衆しゅうに及およぼし、学がくを修おさめ業ぎょうを習ならい、以もって智能ちのうを啓発けいはつし、徳器とっきを成就じょうじゅし、進すすんで公益こうえきを広めひろめ、世務せいむを開ひらき、常つねに国憲こっけんを重おもんじ、国法こくほうに遵したがい、一旦いったん緩急かんきゅうあれば、義勇ぎゆう公こうに奉ほうじ、以もって天壌てんじょう無窮むきゅうの皇運こううんを扶翼ふよくすべし。是かくの如ごときは、独ひとり朕ちんが忠良ちゅうりょうの臣民しんみんたるのみならず、又また以もって爾なんじ祖先そせんの遺風いふうを顕彰けんしょうするに足たらん。
斯この道みちは、実じつに我わが皇祖こうそ皇宗こうそうの遺訓いくんにして、子孫しそん臣民しんみんの倶ともに遵守じゅんしゅすべき所ところ。之これを古今ここんに通つうじて謬あやまらず、之これを中外ちゅうがいに施ほどこして悖もとらず。朕ちん爾なんじ臣民しんみんと倶ともに拳拳けんけん服膺ふくようして、咸みな其その徳とくを一いつにせんことを庶幾こいねごう。
明治二十三年十月三十日
御名ぎょめい 御璽ぎょじ
臣民と国民
一読すればすぐに、臣民はよく出てくるのに、国民という言葉がないことに気づくことでしょう。言葉が無いのも当然で、まだ日本国民は居なかったと考えられるからです。
明治23年といえば、ついこの間まで江戸時代でした。町民や農民など少なからぬ庶民の間では、まだちょんまげを結っていたそうです。現在から23年前は1994年(平成6)ですから、江戸時代の風俗や文化を色濃く残していたとしても無理はありません。
全国に殿様が数千人もいて、士農工商の身分があり、誰しもそれぞれの家臣や領民だったのが23年前でした。徳川幕府の下に諸藩である薩摩や長州などのいわば地域国家があり、その集合が今日でいう日本の全体像だったわけです。
したがって、先祖代々ずっと「天皇の臣民」だったとは多くの人々にとって初耳だったはずです。しかし、だからこそ、教育勅語が必要でした。国民の教育のために、国民に向けて教育勅語が発表されたという順序ではなく、新しく日本国民となるための教育の一貫でした。
教育勅語の「核心的な中身」、つまり肝はここではないかと私は考えます。私たちにとって、日本国民であることは与件ですが、明治23年の人々にはそうではありませんでした。
教育勅語の前年に大日本帝国憲法が発布されているように、天皇を君主とする立憲君主国家として、歴史始まって以来、初めての国民国家の道を我が国は歩もうとしていたのです。
天皇を君主とする立憲君主国家もじつはその通りではなく、後に「天皇機関説」が出るように、あるいは「国体」という言葉が「国柄」を越えて独り歩きしたように、大日本帝国憲法の法的精神(リーガルマインド)は変質し、教育勅語の国民国家への統合という目的は歪められていきます。
つまり、天皇とはどんな存在であり、日本というのはどういう国なのか、そこに暮らす人々とはどんなに人たちであり、だったのか、という大日本帝国憲法や教育勅語が説く内容は、これすべて虚構であり、そうありたいという切実な願いだったといっても過言ではないでしょう。
たとえば、「夫婦ふうふ相あい和わし」(夫婦が仲良く)というのも、当時の人々は首を捻ったことでしょう。婚姻は当事者同士ではなく家の間で結ばれ、遊郭で女性を買うことが遊びとされ、ちょっとした資産家の間では妾を複数持つことが普通とされていました。
兄弟や友人と同じく、夫婦をかけがえのない組み合わせとするのは、そうした現実にそぐわないものだったはずです。
しかし、植民地帝国主義を掲げる欧米列強の侵略が迫るなか、自主独立を守るためには早急な政治や経済の近代化以外に方策はなく、そうした近代化の前提となる西欧のような国民国家となるには、国民として統合する物語がどうしても必要でした。
それには、たとえ急ごしらえでも天皇を中心とする日本という国民の物語を据えるほかになかった、明治の指導者たちの切実な事情を教育勅語から知ることができます。
もちろん、ついこの間まで土佐藩参政だった板垣退助の自由民権運動があったように、明治に国家主義者だけがいたわけではありません。しかし、それもまた、国民国家の文脈に属すものでしょう。
以上、教育勅語には、「良いことも書いてある」のではなく、「良くも悪くも」そんなに選択肢がいくつもあるような時代でなかったのです。
では、道徳訓として、「良いことも書いてある」という政府自民党も、「悪いことが書いてある」といわんばかりの野党や朝日新聞の、どちらもが間違っているのでしょうか。
前出のツイッターや高橋源一郎さんの意訳に反対するかといえば、私はやはりこれが正しい読み方であると考えます。ひとつには、最近、開戦の詔勅について教えられたからです。
開戦の詔勅
http://www.geocities.jp/taizoota/Essay/gyokuon/kaisenn.htmには
1941年(昭和十六)、教育勅語から51年をたち、「一旦いったん緩急かんきゅうあれば、義勇ぎゆう公こうに奉ほうじ」とだけ書かれた、「自主独立」を守る戦いについて、中国との「4年の戦争」を経て、英米との戦争開始を告げています。
教育勅語は、「良いことも書いてある」と一国民としてなら呑気に読めるものですが、開戦の詔勅はそうはいかなかったはずです。切迫した国際環境が具体的に指摘され、「帝国」の危急存亡が繰り返し訴えかけられています。
あえて過言すれば、やはり現在の北朝鮮や金正恩に通じる、強烈な被害者意識による一方的な主張がうかがえます。周囲にほとんど味方がいないというのも共通しています。
教育勅語と開戦の詔勅の異同はいろいろありますが、日付と天皇の署名である御名御璽に注目してください。これも前記の掲示板で教えられたことですが、教育勅語では日付の後に御名御璽が、開戦の詔勅では日付の前に御名御璽があります。
なぜかはわかりません。ただ、格調としては日付の後の教育勅語が上に思え、明治天皇が時空を超越した存在であるかのようです。比べて、日付が後の開戦の詔勅では、昭和天皇が時空に縛られ閉じ込められたようにも感じられます。
二つの勅語を併読すると、「侵略戦争のための軍国主義教育」といった単純な理解は遠のいていきます。二つの勅語は優れて物語だからです。それぞれの異同について、さらにくわしく見てみたい気がしますが、いかんせん、長くなり過ぎました。
ただ、教育勅語が(大日本帝国憲法も)、東洋の小さな島国の希望を表したものとすれば、開戦の詔勅はその後51年にわたる、「血肉」をくわえた無残な現実を示したものといえるでしょう。
その1941年の開戦から1945年の敗戦まで、さらに残酷な現実が積み上げられた記録や記憶を思えば、教育勅語の真實(評価)もまた、そこにあると言わざるを得ません。
(敬称略)
「良いことも書いてある」から道徳の教材に使うことも否定しない、と言われる教育勅語ですが、そもそもこの文書はたんなる「道徳訓」ではありません。教育勅語の核心的な中身は、「もし天皇の身と地位に何かあれば、臣民である国民は命をかけて戦いなさい」というところにあるのです。
残念ながら、ほとんど全行にわたって頷けません。
>「良いことも書いてある」からと言われる教育勅語
たいていの場合、政府自民党の議員や要職から、「教育勅語には良いことも書いてある」といった発言が出て、野党や新聞マスコミなどがこれに反発するという前景があります。
教育勅語が出されたのは1890年、127年前です。自民党政治、および今日に至る政治体制が確立したとされる1955年体制から62年を経てもなお、「良いことも書いてある」という倫理道徳に関わるテキストを生み出せなかった背景があります。
換言すれば、我が国の選良、なかんずく、政治指導者の多くが国民道徳を蔑ろにしてきたか、少なくとも無関心を続けてきたとしか考えられません。
とすれば、127年前の「道徳訓」をひっぱり出す方はもちろん、それを批判する野党やその同伴者である朝日新聞なども、国民道徳を云々する資格はないと言わざるを得ません。
また、道徳訓として「良いことも書いてある」から今日でも有用であるというなら、まず、現在、国民間から道徳が地を払っている証拠を提示しなければなりません。
先進国中、もっとも治安がよい国のひとつであり、殺人など重大犯罪についても、とりわけ若年層で減少している我が国のいったいどこの誰に、道徳が必要とされているのか、説得力ある事例やデータを出さなければなりません。
>「もし天皇の身と地位に何かあれば、臣民である国民は命をかけて戦いなさい」
たいていの場合、野党や新聞マスコミなどが教育勅語を批難するときに、指摘されるのがここです。教育勅語は「良いことも書いてある」が、「核心的な中身」がこれだからダメなのだということです。
127年前、明治天皇が金正恩のような独裁者で大日本帝国が現在の北朝鮮のような国であったのなら、この指摘は頷けるものであり、同時に今日ではとうてい受け入れることはできない一文です。
最近、作家の高橋源一郎さんが教育勅語を現代語訳しましたが、これにも同様な記述がありますので、この機会に通読してみてください。
高橋源一郎 (@takagengen) | Twitter
https://twitter.com/takagengen/
①「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね」
②きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです
③「その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと」
④「そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません」
⑤「もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください」
⑥「というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです
⑦「いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです」
⑧「そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。以上! 明治二十三年十月三十日 天皇」
高橋源一郎さんの文学エッセイは愛読してきたのですが、この現代語訳にはやはりまったく頷けません。教育勅語には、こんなことは書かれていない、と言いたいくらいです。では、教育勅語の原文を以下に引きます(漢文調の名文のリズムを損なわないために、ルビを併記しています)。
朕ちん惟おもうに、我わが皇祖こうそ皇宗こうそう、国くにを肇はじむること宏遠こうえんに、徳とくを樹たつること深厚しんこうなり。我わが臣民しんみん、克よく忠ちゅうに克よく孝こうに、億兆おくちょう心こころを一いつにして、世世よよ厥その美びを済なせるは、此これ我わが国体こくたいの精華せいかにして、教育きょういくの淵源えんげん、亦また実じつに此ここに存そんす。爾なんじ臣民しんみん、父母ふぼに孝こうに、兄弟けいていに友ゆうに、夫婦ふうふ相あい和わし、朋友ほうゆう相あい信しんじ、恭倹きょうけん己おのれを持じし、博愛はくあい衆しゅうに及およぼし、学がくを修おさめ業ぎょうを習ならい、以もって智能ちのうを啓発けいはつし、徳器とっきを成就じょうじゅし、進すすんで公益こうえきを広めひろめ、世務せいむを開ひらき、常つねに国憲こっけんを重おもんじ、国法こくほうに遵したがい、一旦いったん緩急かんきゅうあれば、義勇ぎゆう公こうに奉ほうじ、以もって天壌てんじょう無窮むきゅうの皇運こううんを扶翼ふよくすべし。是かくの如ごときは、独ひとり朕ちんが忠良ちゅうりょうの臣民しんみんたるのみならず、又また以もって爾なんじ祖先そせんの遺風いふうを顕彰けんしょうするに足たらん。
斯この道みちは、実じつに我わが皇祖こうそ皇宗こうそうの遺訓いくんにして、子孫しそん臣民しんみんの倶ともに遵守じゅんしゅすべき所ところ。之これを古今ここんに通つうじて謬あやまらず、之これを中外ちゅうがいに施ほどこして悖もとらず。朕ちん爾なんじ臣民しんみんと倶ともに拳拳けんけん服膺ふくようして、咸みな其その徳とくを一いつにせんことを庶幾こいねごう。
明治二十三年十月三十日
御名ぎょめい 御璽ぎょじ
臣民と国民
一読すればすぐに、臣民はよく出てくるのに、国民という言葉がないことに気づくことでしょう。言葉が無いのも当然で、まだ日本国民は居なかったと考えられるからです。
明治23年といえば、ついこの間まで江戸時代でした。町民や農民など少なからぬ庶民の間では、まだちょんまげを結っていたそうです。現在から23年前は1994年(平成6)ですから、江戸時代の風俗や文化を色濃く残していたとしても無理はありません。
全国に殿様が数千人もいて、士農工商の身分があり、誰しもそれぞれの家臣や領民だったのが23年前でした。徳川幕府の下に諸藩である薩摩や長州などのいわば地域国家があり、その集合が今日でいう日本の全体像だったわけです。
したがって、先祖代々ずっと「天皇の臣民」だったとは多くの人々にとって初耳だったはずです。しかし、だからこそ、教育勅語が必要でした。国民の教育のために、国民に向けて教育勅語が発表されたという順序ではなく、新しく日本国民となるための教育の一貫でした。
教育勅語の「核心的な中身」、つまり肝はここではないかと私は考えます。私たちにとって、日本国民であることは与件ですが、明治23年の人々にはそうではありませんでした。
教育勅語の前年に大日本帝国憲法が発布されているように、天皇を君主とする立憲君主国家として、歴史始まって以来、初めての国民国家の道を我が国は歩もうとしていたのです。
天皇を君主とする立憲君主国家もじつはその通りではなく、後に「天皇機関説」が出るように、あるいは「国体」という言葉が「国柄」を越えて独り歩きしたように、大日本帝国憲法の法的精神(リーガルマインド)は変質し、教育勅語の国民国家への統合という目的は歪められていきます。
つまり、天皇とはどんな存在であり、日本というのはどういう国なのか、そこに暮らす人々とはどんなに人たちであり、だったのか、という大日本帝国憲法や教育勅語が説く内容は、これすべて虚構であり、そうありたいという切実な願いだったといっても過言ではないでしょう。
たとえば、「夫婦ふうふ相あい和わし」(夫婦が仲良く)というのも、当時の人々は首を捻ったことでしょう。婚姻は当事者同士ではなく家の間で結ばれ、遊郭で女性を買うことが遊びとされ、ちょっとした資産家の間では妾を複数持つことが普通とされていました。
兄弟や友人と同じく、夫婦をかけがえのない組み合わせとするのは、そうした現実にそぐわないものだったはずです。
しかし、植民地帝国主義を掲げる欧米列強の侵略が迫るなか、自主独立を守るためには早急な政治や経済の近代化以外に方策はなく、そうした近代化の前提となる西欧のような国民国家となるには、国民として統合する物語がどうしても必要でした。
それには、たとえ急ごしらえでも天皇を中心とする日本という国民の物語を据えるほかになかった、明治の指導者たちの切実な事情を教育勅語から知ることができます。
もちろん、ついこの間まで土佐藩参政だった板垣退助の自由民権運動があったように、明治に国家主義者だけがいたわけではありません。しかし、それもまた、国民国家の文脈に属すものでしょう。
以上、教育勅語には、「良いことも書いてある」のではなく、「良くも悪くも」そんなに選択肢がいくつもあるような時代でなかったのです。
では、道徳訓として、「良いことも書いてある」という政府自民党も、「悪いことが書いてある」といわんばかりの野党や朝日新聞の、どちらもが間違っているのでしょうか。
前出のツイッターや高橋源一郎さんの意訳に反対するかといえば、私はやはりこれが正しい読み方であると考えます。ひとつには、最近、開戦の詔勅について教えられたからです。
開戦の詔勅
http://www.geocities.jp/taizoota/Essay/gyokuon/kaisenn.htmには
1941年(昭和十六)、教育勅語から51年をたち、「一旦いったん緩急かんきゅうあれば、義勇ぎゆう公こうに奉ほうじ」とだけ書かれた、「自主独立」を守る戦いについて、中国との「4年の戦争」を経て、英米との戦争開始を告げています。
教育勅語は、「良いことも書いてある」と一国民としてなら呑気に読めるものですが、開戦の詔勅はそうはいかなかったはずです。切迫した国際環境が具体的に指摘され、「帝国」の危急存亡が繰り返し訴えかけられています。
あえて過言すれば、やはり現在の北朝鮮や金正恩に通じる、強烈な被害者意識による一方的な主張がうかがえます。周囲にほとんど味方がいないというのも共通しています。
教育勅語と開戦の詔勅の異同はいろいろありますが、日付と天皇の署名である御名御璽に注目してください。これも前記の掲示板で教えられたことですが、教育勅語では日付の後に御名御璽が、開戦の詔勅では日付の前に御名御璽があります。
なぜかはわかりません。ただ、格調としては日付の後の教育勅語が上に思え、明治天皇が時空を超越した存在であるかのようです。比べて、日付が後の開戦の詔勅では、昭和天皇が時空に縛られ閉じ込められたようにも感じられます。
二つの勅語を併読すると、「侵略戦争のための軍国主義教育」といった単純な理解は遠のいていきます。二つの勅語は優れて物語だからです。それぞれの異同について、さらにくわしく見てみたい気がしますが、いかんせん、長くなり過ぎました。
ただ、教育勅語が(大日本帝国憲法も)、東洋の小さな島国の希望を表したものとすれば、開戦の詔勅はその後51年にわたる、「血肉」をくわえた無残な現実を示したものといえるでしょう。
その1941年の開戦から1945年の敗戦まで、さらに残酷な現実が積み上げられた記録や記憶を思えば、教育勅語の真實(評価)もまた、そこにあると言わざるを得ません。
(敬称略)