コタツ評論

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なんだかよくわからないイーストウッド論

2019-10-14 22:05:00 | レンタルDVD映画


久しぶりの映画だ。「運び屋」を観た。クリント・イーストウッドには珍しく、家族と和解する物語だった。イーストウッドの映画はほとんど観てきたはずだが、ホームドラマを撮ったことはなかったと思う。

家族を描くときにはたいてい崩壊しているか(「ミリオンダラー・ベイビー」のフランキーは疎遠になった娘にけっして出さない手紙を書き続ける)、あるいは身の毛もよだつものとしてだった(同作、全身麻痺になったマギーを家族は容赦なく罵り傷つける)。

幸福な家族や家庭をけっして描かないというより、そんなものは認めないという頑なささえうかがえる(「チェンジリング」では、行方不明になった息子を必死に探す母親をこれでもかという地獄巡りに落す)。

その偏屈さの裏返しのように、疑似家族ー延長家族的な繋がりは好んで描く(「ミリオン…」のマギーに娘を投影しているのはもちろんだが、「グラントリノ」ではモン族の少年を孫代わりにして愛車を譲ろうとする)。

魅力的で人当たりはよいが、家族や家庭生活を顧みず、好き勝手に生きてきた、頑固というより偏屈な男ー老人をこそ、クリント・イーストウッドは描き続けてきた。「運び屋」もその例に漏れないが、居場所を失い捨てた家族と和解するのが重要なモチーフ、いやテーマになっているといえる。

だがしかし、だからこそ、と言い換えてもよいが、「運び屋」は失敗している。柄にもないことをしてみせたからなのか。あるいは老残の男を描くために家族のエピソードを膨らましただけに過ぎないのか、それとも自らの人生と映画作りを重ね合わせた私小説的な作品なのか、そのどれともすべてとも思えてしまう。

いずれにしろ、もっとも重要で尺(時間)をとっている家族と和解に至る場面が生彩を欠いている。比べて、メキシコの麻薬組織のゴロツキどもや自分を追いかけるDEAの捜査官との、ほんのちょっとの交感の場面には説得力があり、詩情さえ湛えているのだ。

妻や娘の涙目や慈眼や許しの笑顔より、入れ墨だらけのスキンヘッドの猜疑心に尖った眼が自分の冗談で綻んだときや、運び屋のくせに麻薬ビジネスなどやめろと忠告して若い「上司」を困惑させるときのカメラアイには、男愛が零れ落ちている。

だから、いかによぼよぼに見えようと、ダーティハリーの頃と変わらぬイーストウッドがそこにいるという意味では、期待を裏切らぬ映画だろう。女性の扱いや描き方が時代遅れという批判はもちろん妥当するが、やっぱり女抜きのプロレスみたいな映画にはないものねだりといえよう。

たとえば、アール・ストーンの和解の努力たるや札びら切るだけだもの、家族との愁嘆場に泣けるわけがない。麻薬ボス(アンディ・ガルシアだと最初わからなかった)に女を二人も宛がわれて素直に喜んだときに、離婚したとはいえ妻の面影などチラともよぎらなかったはずだ。

死んだばあちゃんが言っていたものだ。「猫とガキは外で何をしているかわかったもんじゃない」。このガキというのはもちろん、私と弟である。イーストウッドは永遠のガキの夢を描いている。イーストウッドに老境なしをあらためて確認した。

いったい、褒めているのか貶しているのか、観たほうがいいのか観なくていいのか、どっちなんだって? そりゃ、あんたがガキであるかどうかによるな。ガキはね、貶されていたり観なくていいといわれると、よけいに観たがるへそ曲がりだがね。

いい年した大人なら、誰かや何かのお墨付きの名画や傑作を観ていれば無難というもの。でも、それじゃ、ほとんどの映画を見逃すことになるから、映画なんて観なくていいというわけだ。

ガキが大人を見抜くように、映画もまた人を選ぶのだ。選ばれても選ばれなくても痛くも痒くもないが、選んだつもりにはならないという効用くらいは映画にもある。

(止め)

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