コタツ評論

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欲望という名の電車

2009-02-19 15:42:22 | レンタルDVD映画


年度末が迫って忙しいのに、CATVで「Sexy Beat」、BSで「ゴッドファーザーⅡ」と「Ⅲ」、同じく今夜のBSで、「欲望という名の電車」の後半30分を観てしまった。仕事をさぼって本を読んだり、じゅうぶんな睡眠をとるべきなのにTVの映画を観てしまう。たぶん、大人のすることではないが、子どもの楽しみでもない。この瘡蓋(かさぶた)を剥がすに似た痛みとスリルは。

まず、「Sexy Beat」。ひどいタイトル。安い予算。検索しても公式ホームページなどは出てこない。さすがに、IMDB(インターネットムービーデータベース)には紹介があった。2人がプロット(あらすじ)を書いていた。

映画紹介のブログなどであらすじを書いているのを見かけ、ときどき思うのだが、書く人はおもしろいのだろうか。まだ観てない人は読みたくないし、すでに観た人は読む気になれないはずだから、たぶん書いている人だけがおもしろいのだろう。他人の楽しみにケチをつけるつもりはない。ただ、同じ書くなら自分だけのあらすじを書いた方がずっとおもしろいのにと思う。雑誌や新聞の映画欄が載せるような最大公約数のあらすじではなく、自分にとってのあらすじが、映画を観たならきっとあるだろうと思う。

たとえば、「欲望という名の電車」は、俺にとってはブランチとスタンリーが惹かれ合う物語以上に、ステラの映画だ。ラストシーンのステラは夫スタンリーとの別れを決意して幼子を抱きしめる。その姿に重なるように、「ステラーッ」と叫び呼ぶスタンリーの声は物苦しい。ステラはなぜスタンリーと別れる決心をしたのか。姉を犯して狂わせたスタンリーに怒ったのではなく、姉とはいえ他の女に心を移したのが許せなかったのでもなく、ブランチの出現によってスタンリーが自らを失いあがくのを見せられ、妻である自分や子どもが眼中にないことを思い知らされたから、スタンリーを捨てるのだ。スタンリーが、家族や生活の内にではなく、その外に夢を見る姉と同じ退嬰的な人間と見破ったわけだ。

「ステラ、生き続けるのよ」とかけられた言葉は、もちろん、第一義的には、「スタンリーのような下劣な男でも、暮らしていくには必要よ。我慢しなさい」という意味だが、「ステラ、現実を生きるのよ」という、より高次な意味が重ねられている。それは同時に、「ブランチのように現実を避けてはいけない」という戒めであり、現実にどう対処するかという選択をうながしている。だから、ステラは、「2度と私に触れないで」とスタンリーを拒否し、「今度こそ別れる決心がついたわ」と貧しい家の前に立ち、周囲を見回すのだ。これが見納めのように。

「ステラーッ」と叫ぶスタンリーの声が重なる。ステラと観客はそこでもうひとつの現実をはっきりと知る。気の狂いかけた姉の世話をし、生活苦に苛立つ粗暴な夫をなだめすかして、すべてを与えて家庭を支えてきたのは誰かを。誰の力によるものかを知る。現実に打ちのめされながらも、現実を変える力を持つ者の名を胸に刻むのだ。ここで、「ブランチとスタンリー」という悲恋映画から、「ステラの選択」という自立の映画となる(後半30分だけ観たせいで、よけいにそう思えたかもしれないが)。エリア・カザンらしい教科書みたいに左翼的な映画だ。

(敬称略)


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