ノーカントリー NO COUNTRY FOR OLD MEN
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?morephoto=ON&oid=7620
よくわからなかった。アンチストーリー、アインチクライマックスの映画だからではない。よくわからないままに、しかしおもしろかったという映画はある。だいたい、外国映画の場合、詳細な点まで理解できるということはあり得ない。したがって、わかるわからないというとき、俺の場合、登場人物に感情移入できるかどうかで分かれる。つまり、殺し屋アントン・シガーが問題だ。
悪魔や死神、あるいは災厄の化身のようなシガーだが、交通事故の怪我を痛がる人間なのに感情移入しづらい。これなら傑作「ヒッチャー」のルトガー・ハウアーが演じたヒッチハイカーの殺人鬼・ジョン・ライダーにずっと感情移入できる。「誰もが殺す必要はないという」とうそぶきながら殺すシガーより、何も言わず手当たり次第に殺していくライダーはずっとわけがわからない。
わけがわからないままにライダーに追われる青年の逃避行に躍動感があった。森のなかで戯れに恋人を振りきって走る女のように。違うのは、追いつかれ捕まった女と男は抱擁を交わすのに対して、ライダーは抱擁や口づけよりもっと深く相手を抉ろうと大型ナイフを使うことだ。異常な殺意が、一種の愛の裏返しなことが察せられる。
圧搾空気を利用したエアガンを使い、牛を屠殺するように人間を殺していくシガーには、わずかな殺意すら見えない。邪魔だから、というだけだ。トミー・リージョーンズの老保安官が嘆くように、そうしたアメリカの非人間性を体現させた非人間をコーエン兄弟は描きたかったのかもしれない。
『ルポ 貧困大国アメリカ』を読んだ後では、その絶望の深さもわかるような気がする。犯罪に絡む大金を持ち逃げして、懸命に逃げ回る、ベトナム帰りの貧しいが気のよいモスは殺され、その数年後にモスの女房もシガーと対面する。シガーは生き続ける。金だけを追う非人間だけが生き続ける。シガーこそがアメリカ人だというように。
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よくわからなかった。アンチストーリー、アインチクライマックスの映画だからではない。よくわからないままに、しかしおもしろかったという映画はある。だいたい、外国映画の場合、詳細な点まで理解できるということはあり得ない。したがって、わかるわからないというとき、俺の場合、登場人物に感情移入できるかどうかで分かれる。つまり、殺し屋アントン・シガーが問題だ。
悪魔や死神、あるいは災厄の化身のようなシガーだが、交通事故の怪我を痛がる人間なのに感情移入しづらい。これなら傑作「ヒッチャー」のルトガー・ハウアーが演じたヒッチハイカーの殺人鬼・ジョン・ライダーにずっと感情移入できる。「誰もが殺す必要はないという」とうそぶきながら殺すシガーより、何も言わず手当たり次第に殺していくライダーはずっとわけがわからない。
わけがわからないままにライダーに追われる青年の逃避行に躍動感があった。森のなかで戯れに恋人を振りきって走る女のように。違うのは、追いつかれ捕まった女と男は抱擁を交わすのに対して、ライダーは抱擁や口づけよりもっと深く相手を抉ろうと大型ナイフを使うことだ。異常な殺意が、一種の愛の裏返しなことが察せられる。
圧搾空気を利用したエアガンを使い、牛を屠殺するように人間を殺していくシガーには、わずかな殺意すら見えない。邪魔だから、というだけだ。トミー・リージョーンズの老保安官が嘆くように、そうしたアメリカの非人間性を体現させた非人間をコーエン兄弟は描きたかったのかもしれない。
『ルポ 貧困大国アメリカ』を読んだ後では、その絶望の深さもわかるような気がする。犯罪に絡む大金を持ち逃げして、懸命に逃げ回る、ベトナム帰りの貧しいが気のよいモスは殺され、その数年後にモスの女房もシガーと対面する。シガーは生き続ける。金だけを追う非人間だけが生き続ける。シガーこそがアメリカ人だというように。
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