『赤めだか』(立川 談春 扶桑社)
書評絶賛。知人の間でも好評なので。もちろん、立川談志の話である。
「古典落語はどう演じても現代に合わん。”伝統を現代に”をスローガンに落語を語り成果も感じてきたが、これからの時代は違う。伝統は伝統、現代は現代だ。落語家は現代を語らにゃいかんのです。俺様は若い漫才師たちと現代で勝負しても負けんのです」
と締めて舞台を降りる談志の背中に向かって、今日も落語を演らねェのかというため息が必ず客席からもれた。(14p)
先頃亡くなった赤塚不二夫と同様に、立川談志も長患いにあり、とっくに過去の人となった感がある。赤塚不二夫については、その「食客」であり、先生と慕ったタモリが記憶に残る弔辞をものした。
http://www.sanspo.com/geino/news/080807/gnj0808071158018-n1.htm
赤塚不二夫の次は談志とするようで、いささか不謹慎だが、タモリの弔辞に似てなくもない。ケチで小心で猜疑心の強い談志の一面すら、折々に見せる胸のすくような啖呵や心に落ちる深慮を際立たせるエピソードとして描かれ、「談志ってそんなにスゴイやつだったのか」と思わせるのに、この本は成功している。
それが臭くもなく、独りよがりに陥らないのは、「惚れ込み思い入れる」ということこそが、最高の批評だからかもしれない。「落語は上手いかもしれないが」と留保しながらも、談志の臭くて独りよがりな時評やコメントに眉をしかめた人は多かったはずだ。ろれつのまわらない酔漢でしかなかった赤塚不二夫のメディア露出を、そのマンガと同様におもしろいと思った人はきわめて少なかっただろう。
しかし、タモリや談春は、毀誉褒貶を越えたところで師匠を見ている。あるいは、その逆も真だろう。互いに、伝え伝えられる何かだけを見ている、見ようとしている。川上と川下に立ち尽くして、水の流れを透かし見るように。談春という人はけれん味たっぷりな人のようだが、この本の読後感は清冽だった。
書評絶賛。知人の間でも好評なので。もちろん、立川談志の話である。
「古典落語はどう演じても現代に合わん。”伝統を現代に”をスローガンに落語を語り成果も感じてきたが、これからの時代は違う。伝統は伝統、現代は現代だ。落語家は現代を語らにゃいかんのです。俺様は若い漫才師たちと現代で勝負しても負けんのです」
と締めて舞台を降りる談志の背中に向かって、今日も落語を演らねェのかというため息が必ず客席からもれた。(14p)
先頃亡くなった赤塚不二夫と同様に、立川談志も長患いにあり、とっくに過去の人となった感がある。赤塚不二夫については、その「食客」であり、先生と慕ったタモリが記憶に残る弔辞をものした。
http://www.sanspo.com/geino/news/080807/gnj0808071158018-n1.htm
赤塚不二夫の次は談志とするようで、いささか不謹慎だが、タモリの弔辞に似てなくもない。ケチで小心で猜疑心の強い談志の一面すら、折々に見せる胸のすくような啖呵や心に落ちる深慮を際立たせるエピソードとして描かれ、「談志ってそんなにスゴイやつだったのか」と思わせるのに、この本は成功している。
それが臭くもなく、独りよがりに陥らないのは、「惚れ込み思い入れる」ということこそが、最高の批評だからかもしれない。「落語は上手いかもしれないが」と留保しながらも、談志の臭くて独りよがりな時評やコメントに眉をしかめた人は多かったはずだ。ろれつのまわらない酔漢でしかなかった赤塚不二夫のメディア露出を、そのマンガと同様におもしろいと思った人はきわめて少なかっただろう。
しかし、タモリや談春は、毀誉褒貶を越えたところで師匠を見ている。あるいは、その逆も真だろう。互いに、伝え伝えられる何かだけを見ている、見ようとしている。川上と川下に立ち尽くして、水の流れを透かし見るように。談春という人はけれん味たっぷりな人のようだが、この本の読後感は清冽だった。
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