町工場のオヤジが引退した。72歳。ふつうは家族や社員くらいしか知ることのない、いや周囲の人々ですら、これほどまとめてオヤジの口から引退の弁を聴く機会はなかっただろう。私は町工場が集積した大田区蒲田で小学生時代を過ごしたので、町工場と町工場のオヤジや工員たちは昔なじみである。町工場のオヤジは、たいていこんな人だった。
かあちゃんの弁当を持って家を出て、日がな一日、暗い工場の蛍光灯の下で仕事をして、土日も休まない。新聞は読みラジオは聴くけれど、暇がないから映画やTVドラマは観たことがなく、むずかしい工作やちょっとした工夫が巧くいったときだけが楽しみ。そんな町工場の職人的なオヤジの地味な引退の挨拶が、朝日新聞の3面のすべてを占めて報じられ、世界を駆け巡った。
宮崎駿監督「公式引退の辞」全文
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1309/06/news063.html
宮崎監督引退会見ライブ(1~7)「今回は本気です」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090614240011-n1.htm
「公式引退の辞」には参った。誰が読んでもわかる文章である。だが、めったに読める文章ではない。Karaさんからレーガン大統領が「グレート・コミュニケーター」と呼ばれていたと教えられたのを思い出した。たぶん、(レーガン大統領にはこれといった知性や教養はないだろう)(がしかし)という逆接を前提に、彼は国民大多数の心に言葉を届ける才能と技術に優れていたと私は理解した。宮崎駿の場合、レーガン大統領とはその前提が違うはずだ。たぶん、(宮崎駿の知性と教養を疑う人はいないだろう)(にもかかわらず)という逆説を前提に、彼は世界の少年少女だけでなく、大人たちの心にも「勇気と優しさ」のイメージを届ける才能と技術に優れていたと。
私自身は、宮崎駿やジブリファンではない。「風の谷のナウシカ」と「となりのトトロ」しかみていないから、観客ですらない。しかし、「風の谷のナウシカ」には心底びっくりした。作品にではなく、Kにだった。アニメ嫌いの私をこの映画に強引に誘ったのは、一回り年下のKという男だった。Kは、食い詰めて私の所属する会社の事務所に寝泊まりしていたのだが、自衛官上がりで街宣右翼、ときどきヤクザの下働きをしている殺伐と物騒側の人間だった。知性や教養はもちろん、情操もきわめて乏しいと思えた坊主頭に悪相のKが、「風の谷のナウシカ」のクライマックスで人目も憚らず「おうおう」と泣き出したのだから、とても映画どころではなかった。
宮崎駿の「風の谷のナウシカ」によって、私は60年代生まれ以降が根深いアニメ世代であることを知り、その当時はそんな言葉など知らなかったが、宮崎駿が「グレート・コミュニケーター」であることを知ったのだと思う。
以下は、引退会見の宮崎の言葉から拾った。
だから(創作を)続けられたらいいと思いますが、今までの仕事の延長線上にはない。僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わった。今後、やろうと思っても、それは年寄りの迷い言だと
僕は児童文学の多くの作品に影響をうけてこの世界に入った。子供たちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えることが、仕事の根幹になければならないと思ってきました。それは今も変わっていません
それから僕は、文化人になりたくないんです。僕は町工場のおやじ。それを貫きたいと思っています。文化人ではありません
『風立ちぬ』の構想は、震災や原発事故によっては影響されていません。はじめからあったものです。時代に追いつかれて、追い抜かれたという感じを映画を作りながら感じました
鈴木:僕が宮崎作品に関わったのは『ナウシカ』から。そこから約30年間、ずっと走り続けてきて、過去の作品を振り返ったことはなかった。それが仕事を現役で続けるということだと思っていた。どういうスタイルで映画を作るのか、なるだけそういうことは封じる。作品が世間にどういう影響を与えたのか、考えないようにしていました
宮崎:まったく僕も考えていませんでした。採算分岐点(損益分岐点)にたどり着いたらよかった、と。それで終わりです
あがってくるカットを自分でいじくっていく課程で、映画への自分の理解が深まっていくことも事実。あまり生産性には寄与しない方式でしたけれども…。とぼとぼとスタジオにやってくる日々。50年、そういう仕事でした
監督になってよかったと思うことは一度もない。でも、アニメーターになってよかったと思うことはある。うまく風が描けたとか、水の処理がうまくいった、光の表現がうまくいったとか…そういうことで2、3日、短くても2、3時間は幸せになれる
僕は、監督や演出をやろうという人間じゃなかった。僕は監督をやっている間も、アニメーターとしてやってきた
そこから長い下降期に入った。バブル崩壊とジブリのイメージは重なっているんです。その後、『もののけ姫』などずるずる作ったりしてきました
僕は18の時から修行を始めたが、監督になる前「アニメーションというのは世界の秘密をのぞき見ることだ。風や人の動きや表情やまなざしや体の筋肉の中に世界の秘密がある。そう思える仕事だ」と分かった。そのとたん、自分の仕事がやるに値する仕事だと思った
自分のメッセージを込めて映画は作れない。自分の意識で(作品は)捕まえられない。最後に未完で終われたら、こんなに楽なことはないんです。僕は叫んでおりません
実際、机に向かえるのは1日7時間が限度。打ち合わせだとか、そういうことは仕事ではないんです。机に向かってこそ仕事
長い間ありがとうございました。(会見について)2度とこういうことはないと思います
(敬称略)
かあちゃんの弁当を持って家を出て、日がな一日、暗い工場の蛍光灯の下で仕事をして、土日も休まない。新聞は読みラジオは聴くけれど、暇がないから映画やTVドラマは観たことがなく、むずかしい工作やちょっとした工夫が巧くいったときだけが楽しみ。そんな町工場の職人的なオヤジの地味な引退の挨拶が、朝日新聞の3面のすべてを占めて報じられ、世界を駆け巡った。
宮崎駿監督「公式引退の辞」全文
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1309/06/news063.html
宮崎監督引退会見ライブ(1~7)「今回は本気です」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090614240011-n1.htm
「公式引退の辞」には参った。誰が読んでもわかる文章である。だが、めったに読める文章ではない。Karaさんからレーガン大統領が「グレート・コミュニケーター」と呼ばれていたと教えられたのを思い出した。たぶん、(レーガン大統領にはこれといった知性や教養はないだろう)(がしかし)という逆接を前提に、彼は国民大多数の心に言葉を届ける才能と技術に優れていたと私は理解した。宮崎駿の場合、レーガン大統領とはその前提が違うはずだ。たぶん、(宮崎駿の知性と教養を疑う人はいないだろう)(にもかかわらず)という逆説を前提に、彼は世界の少年少女だけでなく、大人たちの心にも「勇気と優しさ」のイメージを届ける才能と技術に優れていたと。
私自身は、宮崎駿やジブリファンではない。「風の谷のナウシカ」と「となりのトトロ」しかみていないから、観客ですらない。しかし、「風の谷のナウシカ」には心底びっくりした。作品にではなく、Kにだった。アニメ嫌いの私をこの映画に強引に誘ったのは、一回り年下のKという男だった。Kは、食い詰めて私の所属する会社の事務所に寝泊まりしていたのだが、自衛官上がりで街宣右翼、ときどきヤクザの下働きをしている殺伐と物騒側の人間だった。知性や教養はもちろん、情操もきわめて乏しいと思えた坊主頭に悪相のKが、「風の谷のナウシカ」のクライマックスで人目も憚らず「おうおう」と泣き出したのだから、とても映画どころではなかった。
宮崎駿の「風の谷のナウシカ」によって、私は60年代生まれ以降が根深いアニメ世代であることを知り、その当時はそんな言葉など知らなかったが、宮崎駿が「グレート・コミュニケーター」であることを知ったのだと思う。
以下は、引退会見の宮崎の言葉から拾った。
だから(創作を)続けられたらいいと思いますが、今までの仕事の延長線上にはない。僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わった。今後、やろうと思っても、それは年寄りの迷い言だと
僕は児童文学の多くの作品に影響をうけてこの世界に入った。子供たちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えることが、仕事の根幹になければならないと思ってきました。それは今も変わっていません
それから僕は、文化人になりたくないんです。僕は町工場のおやじ。それを貫きたいと思っています。文化人ではありません
『風立ちぬ』の構想は、震災や原発事故によっては影響されていません。はじめからあったものです。時代に追いつかれて、追い抜かれたという感じを映画を作りながら感じました
鈴木:僕が宮崎作品に関わったのは『ナウシカ』から。そこから約30年間、ずっと走り続けてきて、過去の作品を振り返ったことはなかった。それが仕事を現役で続けるということだと思っていた。どういうスタイルで映画を作るのか、なるだけそういうことは封じる。作品が世間にどういう影響を与えたのか、考えないようにしていました
宮崎:まったく僕も考えていませんでした。採算分岐点(損益分岐点)にたどり着いたらよかった、と。それで終わりです
あがってくるカットを自分でいじくっていく課程で、映画への自分の理解が深まっていくことも事実。あまり生産性には寄与しない方式でしたけれども…。とぼとぼとスタジオにやってくる日々。50年、そういう仕事でした
監督になってよかったと思うことは一度もない。でも、アニメーターになってよかったと思うことはある。うまく風が描けたとか、水の処理がうまくいった、光の表現がうまくいったとか…そういうことで2、3日、短くても2、3時間は幸せになれる
僕は、監督や演出をやろうという人間じゃなかった。僕は監督をやっている間も、アニメーターとしてやってきた
そこから長い下降期に入った。バブル崩壊とジブリのイメージは重なっているんです。その後、『もののけ姫』などずるずる作ったりしてきました
僕は18の時から修行を始めたが、監督になる前「アニメーションというのは世界の秘密をのぞき見ることだ。風や人の動きや表情やまなざしや体の筋肉の中に世界の秘密がある。そう思える仕事だ」と分かった。そのとたん、自分の仕事がやるに値する仕事だと思った
自分のメッセージを込めて映画は作れない。自分の意識で(作品は)捕まえられない。最後に未完で終われたら、こんなに楽なことはないんです。僕は叫んでおりません
実際、机に向かえるのは1日7時間が限度。打ち合わせだとか、そういうことは仕事ではないんです。机に向かってこそ仕事
長い間ありがとうございました。(会見について)2度とこういうことはないと思います
(敬称略)
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