コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

だとすれば・・・。

2015-06-10 23:24:00 | ノンジャンル
川崎の少年殺しをほぼなぞったような事件がまた起きました。

川で不明の高1男子、遺体で発見 刈谷暴行
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20150610-00000008-nnn-soci

川崎のときと同様に、親は、教師は、周囲の大人たちは、かならず発していたはずの少年の救いを求めるサインにどうして気づいてやらなかったのか、なぜ予防できなかったかと、今回も取りざたされるでしょう。そうした議論を間違いだとは思わないし、注意深く子どもを見つめている大人がきわめて少ないということもよくわかります。その一方で、どこか非現実的な議論と感じ、お定まりの提言に思えるのは私だけでしょうか。

実験用のマウスを飼育した経験のある人なら、騒音や振動などのストレスにさらされると、マウスは共喰いをはじめることがあるのを知っているはずです。子どもたちのイジメ殺人も、子どもという種の共喰いかもしれない。ふとそんなことを考えました。

川崎や愛知の少年殺しには、女子も含めた5人程度が現場に居合わせたことがわかっています。ならば、犯行現場に居合わせなかっただけで、より多くの追随者がいたであろうことは想像に難くありません。暴力的な支配に長けたボスがいて、その命令に従った子分たちが犯行に加わったというより、誰が主導したかわからない集団の犯意(殺意?)の結果とみることもできます。

殺人にまで至ることは稀ですが、イジメの構造と共喰いはよく似ている点があります。あるマウスが興奮して、隣のマウスを威嚇する、いきなり噛みつく、周りのマウスも加わるか容認する、共喰いはそんな風にはじまります。なぜそのマウスが喰われるのかはわかりません。とりたててイジメられる要因が被害者にあるわけではないのです。いずれも、一見しただけでは、喰う者と喰われる者の見分けがつきません。

もちろん、狭いゲージに閉じ込められた過密と外部からのストレスという共通項はあげられるでしょう。ただ、比喩としてはあり得ても、実験用に飼育されているマウスと私たちの子どもの環境を同列に扱うのは、荒唐無稽に過ぎるでしょう。マウスなら、静穏な環境に戻れば、共喰いは止みます。人間の子どもとなると、マウスとは比べようもない、多様で複雑なストレッサー(ストレス要因)のゲージに閉じ込められていそうです。

あるいは、「この川を渡り戻ってきたら許す」などと自己責任による事故死を演出するといった保身にみられる大人顔負けの狡猾さは、彼らの発達した社会性を裏づけるものです。つまり、子どもたちのイジメとは、マウスのような共喰いであり、かつ共喰いではないのかもしれません。たんなる集団と共同体、あるいは社会は歴然と異なるものだからです。

そう留保してもなお、マウスの共喰いと子どもたちのイジメを同列視する言葉には気づかざるを得ません。なぜ予防できなかったか、サインに気づけなかったのか、注意深く観察していなかったのか、などは、マウスの「観察者」の「視線」と選ぶところがありません。共喰いをイジメを未然に防ぐ、期待される「視線」は驚くほど似かよっています。

だとすれば、こうとも考えられます。マウスの「観察者」の「視線」は少なくともマウスに向けられているが、私たち大人の視線は、灰色に鈍く光るゲージに向けられている。もっと率直にいえば、私たちの視線そのものが、子どもたちにとってというだけでなく、自身にとっても、すでにゲージになっていないと言い切れるのか。

子どもという現実を見失っているのではなく、ゲージという異なる現実に眼を奪われているのでもなく、ゲージそのものとして、「観察者」を探し求めてその不在を嘆いている。ゲージは、マウスからの凝視と「観察者」のまなざしと合わさって、はじめてゲージ足り得るからです。私たち自身がゲージ、だとすればという超現実。そこで、話しは振り出しに戻るわけです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿