松圭さんは著名な法政大学教授だったわけだが、本籍はもちろん東京大学法学部だった。丸山真男門下として将来を嘱望され、当然のごとく東大教授をめざしながら、なぜ法政大学に来たか。当時、法政大学法学部の学生だった人に、若かりし(30代)松圭さんの印象を聴いたことがある。
「とにかく鼻持ちならない先生でした」と現在は75歳になったはずのかつての法大生は語った。松圭さんとはわずか10歳違いだから遠慮がない。
「給料をもらっているかぎり、授業はきちんとやりますが、僕の話はたぶん君たちには難しすぎてわからないだろう。だからといって、授業中にくだらない質問は受けつけません。何か聞きたいことがあれば、後で部屋に来てください」とこうですからね。
つまり、東大から法政に来たばかりの松圭さんはふてくされていた。望んで法政にきたわけではなかった。もちろん、東大をセクハラなどでしくじって私大に都落ちしたわけではない。松圭さんが東大教授になり損ねたのには、「レッドパージ」という当時の政治状況が背景にある。朝鮮戦争が勃発したのをきっかけに、GHQ(米占領軍)が共産党員や共産主義思想を持つ者を各界から追放せよと呼びかけたのだ。
アメリカ占領軍と共にやってきた「自由」は、アメリカの「国際戦略」の都合により制限され、「不自由」へ逆行するのだが、GHQが直接、日本で「赤狩り」をやったわけではない。アメリカが「提唱」して、日本側が「主導」したという合作であった。もちろん、東大教授でもなく、一介の若手の学者に過ぎなかった松圭さんが「レッドパージ」の対象であったはずもないが、戦前への「逆コース」は教育界の代表である東大をはじめ、全国の大学や高等教育機関を激震させ、これに反対する学園の「レッドパージ闘争」が起きた。
というようなマクロな政治状況の記述も私の任ではないので、日米合作という真っ黒なミクロ状況の学内政治について、今日ではゴシップネタとなる、東京大学をめぐるいくつかの伝聞を書くつもりだった。が、若き日の松圭さんが偲ばれる下掲の良ブログを見つけて読むうちに、松圭さんは遅かれ早かれ、東大を去る人ではなかったかと思い直した。「鼻持ちならない」松圭さんが、その後、どう変わっていったかについて、後年の学生の一人が書いている。http://karansha.exblog.jp/15207222/
教授の口癖は「僕はマルヤマシンダン(と、いつもあえて音読みしていた)の異端の門下生」というものだった
また、ただの学者ではなく、ジャーナリスティックなセンスを持つ、イデオローグの一面を自身が率直に語っている。http://karansha.exblog.jp/15553847/
「私は、市民運動というのはつねに少数者の運動だと思う。ただ、取り組む争点によって拡がる可能性のある場合もあるが、でも市民運動は構造的にたった一人の反乱です。そのたった一人の反乱が何人か増えていけば幅が広くなる。基本的にはそういうものですよ。少数者運動だとわりきっていたほうがいい」
安倍内閣の安保法制、戦争ができる国日本について問われれば、たぶん、松圭さんは以下と同様な発言をくり返すだろう。http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100103/p1
たとえば、「日本の優秀な工業力を侵攻国はねらう」というような立論が、今日もひろくみられる。これにたいする批判論も、憲法原理にもとづく原則からの異議申立にとどまるとするならば、この批判論も都市型社会における戦争イメージを構築していないことになる。
そこには、いずれの側においても、戦争にいたらない以前に、「有事迫る」という緊迫状況が始まるだけで、東京、大阪などの巨大都市圏にパニックがおこり、日本の工業力自体が破綻しはじめるという事態は想定されていないのである。
そのとき、国土に、一〇〇〇万単位、つまり数千万の都市難民ないし失業者があふれはじめる。ことに東京がパニックになれば、国の政府、それに自衛隊も崩壊するとみた方がよい。以上は想定しうる極限状況であるとしても、現実性をもっている。
他方、侵攻軍にしても、このような状況への侵攻は、工業力を利用しうるというプラス要因がないばかりか、かえってコストが高くなり、無意義になってしまう。それどころか、侵攻軍は一億の日本の人口をくわせるという責任をおうのである。
これが都市型社会の過熟した日本の現実である。それにもし、自衛隊ならびに在日アメリカ軍の軍事拠点を撃破したいならば、戦術核をふくむミサイルの行使だけで充分である。上陸の必要はない。
この意味で、日本の工業が高度化すればするほど、東京圏が巨大化すればするほど、都市型社会の問題点が尖鋭となる。都市型社会の過熟した日本は、戦争にたえられないモロイ構造になってきたのである。
日本は「経済大国」になったのだから、今度はそれにふさわしい「軍事大国」に、という軍備増強論のストーリーは幻想にすぎない。日本は、経済大国になればなるほど、アメリカやソ連などの大陸国家と異なって、軍事的にモロイ構造になっていく。日本の軍備増強論は、アメリカの軍事戦略を下請けしているばかりでなく、その戦争イメージが農村型社会のそれに固着しているため、このジレンマに気付いていない。
松圭さんのご冥福をお祈りします。先生、あんときは、すいませんでした。
「とにかく鼻持ちならない先生でした」と現在は75歳になったはずのかつての法大生は語った。松圭さんとはわずか10歳違いだから遠慮がない。
「給料をもらっているかぎり、授業はきちんとやりますが、僕の話はたぶん君たちには難しすぎてわからないだろう。だからといって、授業中にくだらない質問は受けつけません。何か聞きたいことがあれば、後で部屋に来てください」とこうですからね。
つまり、東大から法政に来たばかりの松圭さんはふてくされていた。望んで法政にきたわけではなかった。もちろん、東大をセクハラなどでしくじって私大に都落ちしたわけではない。松圭さんが東大教授になり損ねたのには、「レッドパージ」という当時の政治状況が背景にある。朝鮮戦争が勃発したのをきっかけに、GHQ(米占領軍)が共産党員や共産主義思想を持つ者を各界から追放せよと呼びかけたのだ。
アメリカ占領軍と共にやってきた「自由」は、アメリカの「国際戦略」の都合により制限され、「不自由」へ逆行するのだが、GHQが直接、日本で「赤狩り」をやったわけではない。アメリカが「提唱」して、日本側が「主導」したという合作であった。もちろん、東大教授でもなく、一介の若手の学者に過ぎなかった松圭さんが「レッドパージ」の対象であったはずもないが、戦前への「逆コース」は教育界の代表である東大をはじめ、全国の大学や高等教育機関を激震させ、これに反対する学園の「レッドパージ闘争」が起きた。
というようなマクロな政治状況の記述も私の任ではないので、日米合作という真っ黒なミクロ状況の学内政治について、今日ではゴシップネタとなる、東京大学をめぐるいくつかの伝聞を書くつもりだった。が、若き日の松圭さんが偲ばれる下掲の良ブログを見つけて読むうちに、松圭さんは遅かれ早かれ、東大を去る人ではなかったかと思い直した。「鼻持ちならない」松圭さんが、その後、どう変わっていったかについて、後年の学生の一人が書いている。http://karansha.exblog.jp/15207222/
教授の口癖は「僕はマルヤマシンダン(と、いつもあえて音読みしていた)の異端の門下生」というものだった
また、ただの学者ではなく、ジャーナリスティックなセンスを持つ、イデオローグの一面を自身が率直に語っている。http://karansha.exblog.jp/15553847/
「私は、市民運動というのはつねに少数者の運動だと思う。ただ、取り組む争点によって拡がる可能性のある場合もあるが、でも市民運動は構造的にたった一人の反乱です。そのたった一人の反乱が何人か増えていけば幅が広くなる。基本的にはそういうものですよ。少数者運動だとわりきっていたほうがいい」
安倍内閣の安保法制、戦争ができる国日本について問われれば、たぶん、松圭さんは以下と同様な発言をくり返すだろう。http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100103/p1
たとえば、「日本の優秀な工業力を侵攻国はねらう」というような立論が、今日もひろくみられる。これにたいする批判論も、憲法原理にもとづく原則からの異議申立にとどまるとするならば、この批判論も都市型社会における戦争イメージを構築していないことになる。
そこには、いずれの側においても、戦争にいたらない以前に、「有事迫る」という緊迫状況が始まるだけで、東京、大阪などの巨大都市圏にパニックがおこり、日本の工業力自体が破綻しはじめるという事態は想定されていないのである。
そのとき、国土に、一〇〇〇万単位、つまり数千万の都市難民ないし失業者があふれはじめる。ことに東京がパニックになれば、国の政府、それに自衛隊も崩壊するとみた方がよい。以上は想定しうる極限状況であるとしても、現実性をもっている。
他方、侵攻軍にしても、このような状況への侵攻は、工業力を利用しうるというプラス要因がないばかりか、かえってコストが高くなり、無意義になってしまう。それどころか、侵攻軍は一億の日本の人口をくわせるという責任をおうのである。
これが都市型社会の過熟した日本の現実である。それにもし、自衛隊ならびに在日アメリカ軍の軍事拠点を撃破したいならば、戦術核をふくむミサイルの行使だけで充分である。上陸の必要はない。
この意味で、日本の工業が高度化すればするほど、東京圏が巨大化すればするほど、都市型社会の問題点が尖鋭となる。都市型社会の過熟した日本は、戦争にたえられないモロイ構造になってきたのである。
日本は「経済大国」になったのだから、今度はそれにふさわしい「軍事大国」に、という軍備増強論のストーリーは幻想にすぎない。日本は、経済大国になればなるほど、アメリカやソ連などの大陸国家と異なって、軍事的にモロイ構造になっていく。日本の軍備増強論は、アメリカの軍事戦略を下請けしているばかりでなく、その戦争イメージが農村型社会のそれに固着しているため、このジレンマに気付いていない。
松圭さんのご冥福をお祈りします。先生、あんときは、すいませんでした。
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