コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

もっとプロパガンダ芸術を

2016-07-10 12:11:00 | 政治
木下惠介 「陸軍」


2009/02/12 にアップロード
昭和19年の陸軍省全面後援の国策映画。最後の10分。


はじめて観たが、はじめて木下惠介を素晴らしい映画作家だと思った。ひとり軍楽隊の音を追いはじめた田中絹代の母親に、町のあちこちから人々が加わっていき、出征兵士の行進と沿道の群衆を鳥瞰するまでの長いショットの見事なこと。出征する息子を探すおぼつかない足どりが、その姿を認めてからは人の波に逆らい分けながら前に出て、行進に追いすがっていくときの千変万化する表情と身ぶり。映像から伝わってくるのはまぎれもなく母親の痛切な愛惜の念であり、誰しも涙ぐまずにはいられない。

たぶん、アメリカでこんなラストシーンなら、「戦意高揚映画」どころか「反戦映画」にジャンルされるか、少なくとも厭戦気分を煽るとして検閲を通らないだろう。もちろん、木下惠介がひそかに反戦や厭戦の意図をこのシーンに込めたわけではないはずだ。本物の陸軍兵士を動員し、膨大な送迎国民のエキストラを得て、じゅうぶんな予算とフイルムを費消できる満足感だけでなく、とにかくリアルに撮ろうということしか念頭になかっただろう。むしろ、快活な笑顔を向ける息子に、作り笑顔で応える母親の全身が表す裏腹な思いこそ、国民の戦意を高めると陸軍省は認めたのだろう。邪悪な敵に立ち向かうというより、脆弱な自らを国策に奮起させるところに、きわめて日本的な高揚があるようだ。

このシーンだけを観ても、映画「陸軍」が写実に優れた傑作であることが容易に推測できる。いまは封印されている藤田嗣治の戦争画にも素晴らしい作品がいくつもあった。かつて喝采を受けた作品が後に見向きもされなくなったのは、「流行」が去ったからだけではなく、作品としての価値を認めざるを得ないことを怖れたからではなかったか。芸術が政治に奉仕したことは論難できても、傑作や秀作を駄作や凡庸と罵ることはできない。そしてなにより、邪悪な敵に正義の鉄槌を下すという理ではなく、苦しく辛い戦争に死ぬまで耐え忍ぶしかないという情に訴えたものであれば、そうたやすく是非を問えるものでもない。それは国民感情に似て我が事になるからだ。

昔の兵隊さんが、「天皇陛下万歳!」と叫んで死のうと「お母さん!」と呟いて死のうとさほど変わりはなかったのではないか、という不埒な思いがこのラストシーンを観て込み上げてしまった。少なくとも、神聖視されたという天皇陛下とおろおろ歩く母が等しく非政治的な存在でなければ、とうていこのシーンはプロパガンダとはなり得ない。「ジジイが考えて、オッサンが命令して、ガキが死んでいくのが戦争」(@大橋巨泉)とは反戦プロパガンダとして明快すぎる。そこに欠落している見守る存在をくわえてはじめて、プロパガンダにも芸術にもなり得るのではないかと考えてみた参院選の朝。

(敬称略)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三宅洋平と山本太郎と小沢一郎 | トップ | トランプが支持を集めるわけ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

政治」カテゴリの最新記事