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心機一転

2021-04-09 13:42:00 | 政治
福島第一原発の事故対応と同じ轍を踏む新型コロナ対応という論考です。

この国のマスメディアは、いま何が実際に起きているのか、どこに問題があるか、何をすればよいのか、あるいはしてはならないのか、という報道が必要とされるときには、ほとんど報道しません。

たとえば、デジタル法の問題点は法案が可決通過した後に「報道」されます。発表記事と速報性を優先するからですが、新型コロナ対応でも、毎日の新規感染者数の発表報道ばかり。

感染者数や検査数の推移と一連のコロナ対策がどう関係しているのか、医療体制のひっ迫とはどんな状況で、どのように対処しているのか、何もかもがほとんどわかりません。

福島第一原発の事故のような大きな事故では、すべてが過ぎ去った数年も経ってから、確定した事実や研究成果を踏まえて、ようやく検証報道や解説記事が出されて、当時起きた事実や伏せられた報告、改竄されたデータなどをはじめて知ります。

ツイッターをはじめとするSNSの普及により、「いま現在」の「検証」や「解説」をする情報はかくだんに増えました。しかし、その土台となっているメディア報道の取捨選択をはじめ、断片的な情報を繋ぐ理路の妥当性を判断するのは容易ではありません。

たいていの人には、そんなリテラシーを身につける暇も余力もないはずで、よくわからないままか、かえって混乱してしまうでしょう。

下のエッセイは、確定した事実と報告に基づく福島第一原発の事故対応を「前例」として、「いま現在」の新型コロナ対応と相似を見い出し、その「病根」を指摘するものです。

いわば、合わせ鏡」に映して姿を見るわけです。

10年前の「反復」がもたらした日本のコロナ危機
「中止だ中止」と言えない主権者と無責任の体系

https://toyokeizai.net/articles/-/420664

2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分、東北地方を中心にM9の巨大地震が起きました。1時間後、高さ15mの大津波に襲われた福島第一原子力発電所は全電源を失います。

停電によって水を各所に供給するポンプが動かず、原子炉を冷却するための水が蒸発してしまえば、炉心溶融(メルトダウン)が起きます。

多くの危険きわまる事象のうち最も危険であったのは、4号機の核燃料プールの件だった。そこには1331体の使用済み核燃料が納められ、うち548体はつい4カ月前に原子炉内から引き抜かれたばかりの、高温の崩壊熱を放つものだった。そのプールに注水できなくなった。注水できなければ当然、プールのなかの水は核燃料の崩壊熱によって蒸発し、燃料がむき出しになる。

3月13日昼過ぎの時点で原子炉に注入する淡水がなくなり、吉田昌郎福島第一原発所長は、海水を注入するほかないと報告した。その直後の東電本社と現場とのテレビ会議の模様が後に報道されるが、そこで東電幹部から発せられた言葉は耳を疑わせるものだった。

「いきなり海水っていうのはそのまま材料が腐っちゃったりしてもったいないので、なるべくねばって真水を待つという選択肢もあるというふうに理解していいでしょうか」

この幹部が懸念したのは、海水を注入された原子炉が使用不能になることだった。吉田所長は「理解してはいけなくて、(中略)今から真水というのはないんです。時間が遅れます、また」と即座に返しているが、この会話は狂人と正常人のやり取りに聞こえる。メルトダウンはもう間近に迫っていた。

当時の菅直人政権は、最悪のシナリオとして、首都圏を含む東日本全体の壊滅を想定したというが、それは何ら大袈裟なものではなかった。この事態は、東日本壊滅というよりも、日本壊滅と考えたほうが適切であろう。また、日本にとどまらず、世界全体の自然環境に対する影響の観点からすれば、文明の終焉すらもたらしかねない事態だった。

東電幹部の言葉からは、そのような認識と切迫感が一切感じられない。「原子炉が使えなくなると我が社に何百億円も損が出る」という懸念があるだけだ。要するに、この人物は、「日本が終了してしまうこと」と「東京電力という会社が何百億円か損失を出すこと」とを天秤に掛けてどちらが重大であるのかを判断できなかった。
都合により順序を入れ替えています

と、たいていはここで「批判」の筆を止めます。

となると、「間違っていたかもしれないが、会社を守りたいという気持ちは理解できる」という「情状酌量」の余地も生まれます。あるいは、「会議の場でいろいろな可能性を検討するために、尋ねるくらいは当然じゃないか」という擁護論も出てきます。「日本壊滅の瀬戸際だったなんて、後にわかったことでそのときは「想定外」だったのだから、多少とんちんかんな質問や指示などがあっても、結果論で責めるのはどうか」といった開き直りまであり得ます。

物事を自分に引きつけて「相対化」して、それを「客観中立的」な立場と思いがちな、読み手の心機を包含するもので、メディアの「追及」はたいていここまでです。しかし、この筆者はさらに続けます。

否、東電の損失すら考えていなかったもしれない。大失態を起こしてしまった原子力部門に属する自分の出世の困難を思っていたのかもしれない。かかる人物を形容するにあたり、「狂人」以外に適切な言葉を私は知らない。

吉田所長と東電幹部のTV会議のやりとりは、このブログでも触れたことがあります。

おい、吉田
https://moon.ap.teacup.com/chijin/1066.html

この筆者のように、こうした発言をした東電幹部を「狂人」とまで私は思いません。自己保身に汲々とすることは、自分に引きつけるなら誰しも思うことであり、その逆に手柄を立てて少しでも上の位階に上がりたいという「向上心」や「野心」と裏表の心機とも考えられます。

もし狂っているとすれば、そうした自己保身に汲々とする自己ですら、じつは稀薄ではないかと思えるところです。自己保身というなら、自らを含む原子力部門から会社までの無事安寧を願い、そのため「だけ」には懸命になるものと考えられます。

が、その心機もまた、建前に過ぎず、直接的には、そしていちばん心を砕いているのは、その場にいる上位者、その背後に控えるさらなる上位者の機嫌を損ねたくないというテーマではないでしょうか。本音ではなく命題です。

たとえば、自己保身だけと批難したとしても、理屈としてはわかっても得心できないといった風に、彼は首を捻るでしょう。彼自身にとってこのテーマは意識せずに遂行できるまで内部化しているからです。

眼前の上位者に眉を顰めさせず渋い顔をさせず、機嫌のよいニコニコ顔でいてもらう、そのために俺がどれほど苦労をしてきたか、その苦労の甲斐あってこそ、ここまで出世できたという認識に、彼は持ち金のすべてを賭けるでしょう。

失敗したり窮地に追い込まれて、自己保身に汲々とするなら、成功したり追い風に乗ったなら、社内では肩で風を切って仕事に邁進し、業績を上げる企画や改革を進めるのですが、そうした個人として当然の動機すら、上位者の機嫌のなかに埋没しているのです。

自己保身に汲々とするのは自己利益のためですが、上位者のご機嫌取りに汲々とするのは、ある意味自己犠牲をともなう辛い「仕事」です。会社の存亡など、理屈としてはわかっていても、じつは眼中にはありません。

このエッセイでは、無責任体系、反知性主義、新自由主義など、いろいろな主義や構造が批判的にとりあげられていますが、それらはじつは原因や要因ではなく、こうした「ご機嫌第一主義」の結果に過ぎないのではないでしょうか。

「狂人」の淵源を先の敗戦に筆者は求めていますが、私なら敗戦後の占領期を思い浮かべます。会議室で占領者であるアメリカ人に相対して、日本の官僚や政治家たちは、いったい何に腐心したことでしょう。とにかく、相手の機嫌を損ねないこと、ニコニコ顔で世辞の一つももらえたら、有頂天になったことでしょう。


板橋文夫 Fumio Itabashi Trio - Cry Me A River



(止め)



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