コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

お母さんといっしょ

2016-02-07 06:05:00 | ノンジャンル
ひさかたぶりにグループホームの母を訪ねた。

ちょうど介助されてトイレから出てきたところだった母は様変わりしていた。
「ほら、お客さんよ」「息子さんよ」と傍らの職員から呼びかけられても、ひき結んだ口元は緩まず、向けられた瞳は虚ろなまま瞬きもしない。車いすの母は表情をまったく失っていた。

母を抱きつかせた職員は土俵際の力士のように密着した身体を四分の一ほど反転させて、母をベッドに投げ出して横たえた。なんどかバウンドした母の胸は上下している。手早くかけられた掛布団から、母の右手を探し出し両手で包んだ。やがて胸は平らになり、右手から伝わる心拍も落ち着き、小さないびきをかくようになった。

六畳に満たない個室には、着古した幾枚かの衣服が吊るされているだけ。ホームの何かのイベントの日にこしらえられた色紙の飾りがかえって殺風景に映る。開くことのない小さな窓の下で眠る母の横顔を見ている。私を認知しなくなっていたことに格別の驚きも戸惑いもなかった。しかし、私が訪ねなかったためだろうという確信はあった。

前回訪ねたときは、「おひげがぼうぼうだね」と幼児のように笑い、持参した桃を頬ばった母はもういない。髭を剃った顔と持参したカットフルーツの盛り合わせは持ち帰ることになりそうだ。

もしかすると、その無表情と無言は私へのあてつけではないか、一年以上もほったらかしにした無情な息子についに愛想をつかし、心を閉ざしているのではと思ってもみたが、母の手を握ったときにはわずかな鼓動の乱れも伝わってこなかった。かれこれ一時間近く母の横顔に見入っている。ほかに見るものもない。

ビールの専業主婦CMで一部の反感を買った女優の檀れいと同じく、我が強く、ために縁遠いとされた女のわし鼻を見ている。私は母が三十過ぎの子どもだ。笑子という名前の通り、よく笑う娘だったという母のへの字に結ばれた唇を見ている。ときどき吐息に半開いて魚のぼらの口に似ていると思う。

母の手をそっと離すとき、少し握り返した気がした。いや、気のせいだろうと思った。個室の引き戸を開けると、職員が、「あれ、もう帰られるんですか?」と声をかけてきた。そう、もう帰るんです。あまり、ここには居たくないんです。もっといえば、来たくなかったんです。そんなことを心中で返しながら、ベッドの母を振り返った。「また来るからな、おふくろ」と私はつぶやいた。

(敬称略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする