Zooey's Diary

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「フジ子・ヘミング―魂のピアニスト」

2011年03月05日 | 

以前読んだ「フジ子・ヘミング―魂のピアニスト」を改めて読み直してみました。

イングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング、1932年生まれ。
長い名前は、父親がスゥエーデンの貴族だったからなのですね。
母親は、大阪の富裕な家の出身であり、 芸大でピアノを学び、
ベルリンに留学し、そこでヘミングと知り合うのです。

しかし、その二人のことをフジコ女史は決してよくは書いていない。
両親は彼女が幼い頃からケンカばかりしていたし、
彼女が5歳の時、戦争が近づいて不穏になった日本から、父は逃げ出してしまうのです。
妻と、フジコと、その弟を捨てて。
”父は貴族学校で教育されたのだけど、うわべを飾る類の人種であって、
相当のエゴイストだったらしい。”と書いています。
そして後年、フジコが大人になってからストックホルムに移住した際に
事業家として成功した父に逢おうとするのですが、拒否されています。
”きっと金でもせびりに来たのだ、と考えたのだろう”と彼女は断言しているのです。

母のこともまた、彼女はよくは書いていない。
”母は、気性の激しい一面を持っていた。
我を忘れるほど、ヒステリックになることもあるくらい。
考えてものを言う、賢い女ではなかったのだろう。”
その母から、彼女は幼い頃からピアノの手ほどきを受けるのですが
叱られ、罵倒されてばかりの、それは酷いレッスンだったらしい。
そして大人になって、そこそこ成功してからも
「日本であなたが活躍するチャンスなんてないわよ」と断言した母。
「ドイツへ行ったって、あなたのことなんか、少しもこっちに
届いてこないじゃないの、悪い噂しか。有名にならなかったわね。
それはね、あなたにどっか悪いところがあるからなのよ。」
とまで言った母。
母親の容態が悪くなった時、ハンブルクにいたフジコは
”母の容体が思わしくないのは、前から聞いていた。
だから、わたしは母のために毎日、毎日祈った。”
と書いていますが、
しかし彼女が日本に帰ったのは、母親が亡くなって2年後なのです…

この本は彼女の初の著作で、これだけを読んで色々言うのは酷かも知れませんが
自分の人生を冷静に見つめ直す、という感じの自伝ではありません。
支離滅裂に、今までの自分の思いのたけを書きなぐった、という印象。
だから彼女の両親との葛藤(ことに母に対しての思い)も
愛と憎のそのどちらが勝ったのか、いまひとつ掴みにくいところがあります。
それでも、
何処に行っても「外国人」として苛められ、差別され(日本でもドイツでも)、
赤貧の生活を耐え抜き(ベルリンの留学時代には、一週間砂糖水だけで過ごしたこともあったという)、
16歳のとき右耳の聴力を失い、ベルリンでの初のリサイタルの直前に
左耳の聴力をも失う(その後の治療で今は回復しているらしい)という悲劇に見舞われながらも
プライドを失わず、ピアノへの情熱を失わなかった彼女の姿に
感動を覚えずにはいられません。


「フジ子・ヘミング―魂のピアニスト」 http://tinyurl.com/ajxfog
コメント (4)
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