ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

コミュニケーションと詩 続き

2021-03-23 08:20:02 | ワークショップの報告


みっつのコミュニケーションモデルについて感じたことを追加しておきたい。

なぜ私は「フラットな対話の関係」が日常のすみずみまで必要と考えるのか。
それは民主主義の根幹であり、個人の人権を尊重するということすなわちひとりひとりに敬意を払うということだと思うからだ。

私は教育の中に演劇的手法を取り入れるということを20年ほどやってきた。

そのひとつに、プレゼンテーションの技法として演劇的手法を取り入れるということがある。
獲得型教育研究会にも『教育プレゼンテーション』という書籍がある。
私も書かせてもらった。

この本が出版されたのちに、獲得研の例会で合評会を行った。
その時私は、「この本の実践事例の多くがプレゼンテーションとして完成された発表をめざしている。教育のプレゼンテーションは、インプット・アウトプットの連鎖の中のアウトプットのひとつであって、次へ繋がるものではないか。そういう実践がもっとあっても良かったと思う」と述べた。

今から思うと、これは発信者と受信者を明確に区別しないということでもあった。
共創的なコミュニケーションのなかでのプレゼンテーションを、
私は思い描いていたのだと思う。

競争社会の中で、プレゼンが上手かどうかは結果を左右する。
自分の能力を発揮するために、プレゼンが上手であるにこしたことはない。
今の社会で成功している人は、何らかの方法でアウトプットに成功した人だと思う。
けれどそれが、結局は競争社会を強化し、固定することにつながってほしくない。

自分の思いをうまく話せること。
自分の能力を人の目に見える形で表現すること。
それは必要だと思うし、そういう能力を身につけようとすることも必要だと思う。

けれど、それでもなおそういうことは苦手な人はいる。
例えば、日本という社会では日本語が達者な人は圧倒的に有利だ。
外国からやってきて日本語ができない人が、
日本語ができないというだけで自分の実力を発揮できないことは多々ある。

ひとりひとりの能力を生かすには、
まわりの聴く力(受信力)が必要になってくる。
「何を言っているのかわからない」「変な人」と切り捨てるのではなく
推論する力が求められる。

人と人が同じ土俵にあがるということ。
それは、うまく推論できない人を「空気が読めない」と切り捨てることではない。
力ある人が言わないことを配下の人が推論して、忖度することでもない。

競争社会から共生社会へ。
資本主義から新しい経済の仕組みをもつ社会へ。
未来は民主主義、すなわちひとりひとりが大切にされる社会であってほしいと思っている。
そういう社会の実現に、コミュニケーションのあり方が関係してくる。

ドラマ教育とひとことでいっても、どういう信念や思想のもとにその手法を用いるのか。
そこが違えば結果は大きく違ってくる。

ただ、プレゼンの得意でない私の授業では、こういうことがどれくらい学生に共有されたのか。
ゼロではないことを願いたい。
コメント
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