今回、セクシュアルマイノリティをテーマにした道徳の授業をやってみて、
道徳の授業の難しさを痛感しました。
もちろん、セクシュアルマイノリティというテーマが難しいということもあるのですが
「道徳って何?」と思うわけです。
セクシュアルマイノリティに関して、いろいろな場合があるし、
そういうことについての個人の経験も感情もいろいろあるわけです。
いろいろあるという現実を知ることや、そういったいろいろな人と、
お互いが幸せに暮らせるように話し合ったり、どうすればよいかを考えることは意味があると思うのです。
例えば、道徳の発達段階という考え方を知る。
その上で自分の発達段階を考えてみる。
なんていうのも良いかもしれません。
「持続可能な社会」と自分の道徳心の関係を考えてみるのも意味があると思います。
いずれにせよ、道徳というのは結局心の問題なので、
それを意味のある学習にするには、教師自身がそうとう準備しなければならないと思いました。
今回、小菅さんとふたりで、そうとう準備しました。
それでも、「これで授業にかけられる」というものができあがったわけではありません。
でも、参加者と一緒に考えられたのは意味がありました。
こういった、授業をつくっていく過程が道徳にはとても重要な気がします。
教師が自由に、かつオープンに授業をつくっていく。
そんな研修環境が果たして職場に保障されているのでしょうか。
そうでなければ、「やったかどうか覚えていない」という授業のほうが
罪がないのかもしれません。
道徳を必修にするより、「持続可能な社会のための学習」として「人権・平和・異文化理解・環境・経済と労働・共生」などについて総合的に学ぶ授業を必修にしてはどうかと思うのです。そこで道徳を扱うことも可能です。
そういった学習を通して、自身幸福と社会の在り方について考えてみるのがよいのではと思うこの頃です。