ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

晩秋

2009-12-06 21:04:44 | 日記・エッセイ・コラム

買い物の往復によく立ち寄る東御坊さん(東本願寺別院)。

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まだ秋ががんばっています。

思わず立ち止まってしまいました。

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ドラマを通して「命」の授業

2009-12-02 08:06:13 | 授業・教育

「臓器移植法案」を材料に「命」を考えるワークショップ。これまでに4回実施した。

1回目は、立命館大学での総合演習前期最後の授業。「脳死」「臓器移植が必要」という理解できない状態に真剣に取り組んでくれた。

2回目は、インプロで知りあった学校の先生やその仲間たち。子どもの脳死を告げられた夫婦役をしてくださった二人は、医師の「お二人で話し合ってください」という言葉がけにもかかわらず、絶句したまま。父親役は席をはずし、トイレで涙をぬぐっていた。想像力豊に、真摯にその役になってみると、深い世界が見えてくる。「演じる」ことが感動をよぶのは、プロの俳優の仕業だけではない。

「演じる」ということは、その状況をリアルに想像し、その立場に身を置いてみるということ。

3回目、4回目は、後期の総合演習。まだ授業半ばということもあって、日ごろのお互いの関係性から「状況をリアルに想像し、その立場に身を置いてみるということ」が難しい。照れる。深刻な場面で、つい笑ってしまう。状況をちゃかす。

「演じる」ということはあまりうまくいかなかった。にもかかわらず、場面に身をおいてみることで、いろいろな思いが湧いていたことがあとの話し合いで分かった。

「臓器移植」という問題は、「立場が違えば、考える事が全く変わってくる」ことが、リアルに体験できる。「命」という生きるうえで根本的な問題に対する考えが、立場の違いで全く変わってしまう。

心臓病の子どもをもつ親は、我が子に少しでも生きて欲しい。同じ年頃の子どもからの移植を願う。

脳死の子どもをもつ親は、例え脳死といえども、自分の判断で子どもの心臓を止めることはできないと思う。

脳死の子どもは、このまま目が覚めることもなく、周りにも負担をかける。それなら、自分の臓器を誰かに提供し、生かして欲しいと思う。

心臓病の子どもの気持ちは複雑である。生きたいと思うが、自分の中で他人が生きることは、精神的な重圧でもある。

いずれの立ち場にせよ、生命を人工的に操作することに疑問をもつ人もいる。

「やはり、本人の意志が大切なのでは」「そのためにも、日頃から生や死について家庭で話し合うことが大切」「でも、日頃思っていることと、いざその時とはまるで考えが変わってしまうかも」

命の重さに改めて気づく。

この授業の前に、臓器移植に関係した人がいるかどうかを尋ねた。もしいたら、ドラマで扱うことはやめただろう。ドラマは時として、心理の奥深い部分を揺さぶる。だからこそ学習の方法として良いのだが、時には人を傷つける。自分の関わった事件についてドラマで扱うと、冷静なもう一人の自分がそれを客観的に見ることが難しくなる。

この重大な問題で他の人が「照れて笑っている」と頭で分かっても、気持ちが許せないだろう。人によっては、「臓器移植」という言葉だけも、心臓に爪を立てられたような思いになるかもしれない。

ドラマの授業の難しさは、どんな体験者がそこにいるか、予想ができないということ。これは肝に銘じておきたい。

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