渡部淳先生が亡くなられました。
2020年1月20日午後10時13分。68歳。
9時ごろいつもどおりお家に帰られ、「着替えてくる」と2階へ上がられたところどすん!と大きな音がして、奥様が見にいかれたら倒ておられたとのこと。救急搬送むなしく亡くなられた、というのが、私の聞いた話です。
まったく急な話で信じられず、お通夜、告別式に列席させていただきました。
お通夜には遅れて参加し、最後のご焼香だったかもしれません。
ご遺影に向かって「なぜ」と思うしかありませんでした。
でも、その後獲得研のみなさんにお会いし、みなさんが銘々淳先生のやりたかった仕事、やり残した仕事について、「こうしたい、ああしよう」と語っているのを見て、「亡くなられた」と納得すると同時に、淳先生の蒔いた種が、これからあちこちで花開くだろうと思うと、うれしくて泣けました。
告別式では、気持ちの上でもお別れすることができました。
お棺の中の先生はブレザーでした。倒れられた時の服装だそうです。
先生のお顔を拝見し、すでにこの世にはおられないと実感しました。
淳先生に最初にお目にかかったのは、2007年3月だったと思います。
東京でのドラマケーション指導プログラムの研究開発事業報告会でした。
淳先生が司会で、何か話が混とんとしてきた状況で「混とんとしてきましたね。こういう状況、私は好きです」と笑っておられたことが印象的でした。
終わってから声をかけさせていただいたところ、「このあと何人かで食事をするのでご一緒に」と誘っていただき、食事のときに獲得研の話を聞かせていただいて、即入会となったのでした。
獲得研の発足が2006年4月だそうで、その約1年後ということになります。
とはいうものの、会の活動は東京中心で、私は当時沖縄、その後京都ということで、獲得研への参加は合宿、セミナー、たまに例会と年に数回程度でした。
それでも繋がってこれたのは、常に私のやれることを考えてくださって、セミナーのワークショップファシリテーターや執筆など割り振っていただいたおかげです。「沖縄でひとりよがりにがんばっているへんなやつ」をおもしろがってくださったのでしょう。
この獲得研で、渡辺貴裕先生と出会い、吉田真理子先生と出会いました。これは、私にとって大きな財産となりました。
貴裕先生との出会いによって、私の大学での授業は大きく影響を受けました。貴裕先生の論文は学生にも届く言葉で書かれていて、授業で学生と論文を共有することで授業の質が画期的に向上したと思っています。貴裕先生は私が最も尊敬する先生のおひとりです。
真理子先生とは、もう単に仕事上の関係だけではなく、仕事を離れても生涯心に残る関係となりました。
そのぐらい、ふたりで創ってきたものがあります。
そういった関係を繋ぎ、見守ってくださったのが淳先生でした
思えば、最初に真理子先生とペアでワークショップの担当を割り当てられた時(2012年3月「トム・ソーヤ」のWS)、淳先生はいったい何を考えているのか、東京と京都、英語と理科、この組み合わせで何をせよと…と、とまどったものです。それまで個人的に真理子さんと話したこともありませんでした。内容はまったくのおまかせ。
だからこそ、ふたりで何をしたいか踏み込んで話し合ったのでした。
淳先生も、さすがにこのペアがここまで続くとは思っておられなかったでしょう。
児童・青少年演劇フェスティバル(当時キジムナー、今はリッカリッカ)をプロデュースされている下山久さんに会いに、沖縄南部を淳先生運転の車で下山さん経営の喫茶店にはるばるドライブしたのに閉店だったこと。
京都へ来られた淳先生と岩橋由莉さんと一緒に食事して、当時私の抱えていたトラブルを聞いていただいたこと。
真理子さんと淳先生と3人で喫茶店でお目にかかったこともありました。
このブログも熱心に読んでいただいていたようです。
昨年12月の例会で私の新しい仕事の話になったとき「失敗ばかりしているようだ」と笑っておられました。
この12月の例会も、『〈トム・ソーヤ〉を遊ぶ』の出版お披露目をかねてワークショップをしないかと声をかけていただき、夏のセミナーの「happy」を真理子さん主導で実施したのでした。
先生は、子どもの頃の熟柿の思い出を語っておられました。
happyなワークショップでした。
いろいろ思い出されます。
『〈トム・ソーヤ〉を遊ぶ』の出版記念のささやかな打ち上げに参加していただく予定でした。
それは叶わなくなりました。残念です。
淳先生のご冥福をお祈りします。
2020年1月20日午後10時13分。68歳。
9時ごろいつもどおりお家に帰られ、「着替えてくる」と2階へ上がられたところどすん!と大きな音がして、奥様が見にいかれたら倒ておられたとのこと。救急搬送むなしく亡くなられた、というのが、私の聞いた話です。
まったく急な話で信じられず、お通夜、告別式に列席させていただきました。
お通夜には遅れて参加し、最後のご焼香だったかもしれません。
ご遺影に向かって「なぜ」と思うしかありませんでした。
でも、その後獲得研のみなさんにお会いし、みなさんが銘々淳先生のやりたかった仕事、やり残した仕事について、「こうしたい、ああしよう」と語っているのを見て、「亡くなられた」と納得すると同時に、淳先生の蒔いた種が、これからあちこちで花開くだろうと思うと、うれしくて泣けました。
告別式では、気持ちの上でもお別れすることができました。
お棺の中の先生はブレザーでした。倒れられた時の服装だそうです。
先生のお顔を拝見し、すでにこの世にはおられないと実感しました。
淳先生に最初にお目にかかったのは、2007年3月だったと思います。
東京でのドラマケーション指導プログラムの研究開発事業報告会でした。
淳先生が司会で、何か話が混とんとしてきた状況で「混とんとしてきましたね。こういう状況、私は好きです」と笑っておられたことが印象的でした。
終わってから声をかけさせていただいたところ、「このあと何人かで食事をするのでご一緒に」と誘っていただき、食事のときに獲得研の話を聞かせていただいて、即入会となったのでした。
獲得研の発足が2006年4月だそうで、その約1年後ということになります。
とはいうものの、会の活動は東京中心で、私は当時沖縄、その後京都ということで、獲得研への参加は合宿、セミナー、たまに例会と年に数回程度でした。
それでも繋がってこれたのは、常に私のやれることを考えてくださって、セミナーのワークショップファシリテーターや執筆など割り振っていただいたおかげです。「沖縄でひとりよがりにがんばっているへんなやつ」をおもしろがってくださったのでしょう。
この獲得研で、渡辺貴裕先生と出会い、吉田真理子先生と出会いました。これは、私にとって大きな財産となりました。
貴裕先生との出会いによって、私の大学での授業は大きく影響を受けました。貴裕先生の論文は学生にも届く言葉で書かれていて、授業で学生と論文を共有することで授業の質が画期的に向上したと思っています。貴裕先生は私が最も尊敬する先生のおひとりです。
真理子先生とは、もう単に仕事上の関係だけではなく、仕事を離れても生涯心に残る関係となりました。
そのぐらい、ふたりで創ってきたものがあります。
そういった関係を繋ぎ、見守ってくださったのが淳先生でした
思えば、最初に真理子先生とペアでワークショップの担当を割り当てられた時(2012年3月「トム・ソーヤ」のWS)、淳先生はいったい何を考えているのか、東京と京都、英語と理科、この組み合わせで何をせよと…と、とまどったものです。それまで個人的に真理子さんと話したこともありませんでした。内容はまったくのおまかせ。
だからこそ、ふたりで何をしたいか踏み込んで話し合ったのでした。
淳先生も、さすがにこのペアがここまで続くとは思っておられなかったでしょう。
児童・青少年演劇フェスティバル(当時キジムナー、今はリッカリッカ)をプロデュースされている下山久さんに会いに、沖縄南部を淳先生運転の車で下山さん経営の喫茶店にはるばるドライブしたのに閉店だったこと。
京都へ来られた淳先生と岩橋由莉さんと一緒に食事して、当時私の抱えていたトラブルを聞いていただいたこと。
真理子さんと淳先生と3人で喫茶店でお目にかかったこともありました。
このブログも熱心に読んでいただいていたようです。
昨年12月の例会で私の新しい仕事の話になったとき「失敗ばかりしているようだ」と笑っておられました。
この12月の例会も、『〈トム・ソーヤ〉を遊ぶ』の出版お披露目をかねてワークショップをしないかと声をかけていただき、夏のセミナーの「happy」を真理子さん主導で実施したのでした。
先生は、子どもの頃の熟柿の思い出を語っておられました。
happyなワークショップでした。
いろいろ思い出されます。
『〈トム・ソーヤ〉を遊ぶ』の出版記念のささやかな打ち上げに参加していただく予定でした。
それは叶わなくなりました。残念です。
淳先生のご冥福をお祈りします。