ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

こんにゃく座『犬の仇討』

2021-10-29 09:08:27 | 芸術およびコミュニケーション

2018年公演のポスター

京都労演に27年のブランクを経て再入会して早2年。
10月はオペラシアターこんにゃく座の公演だった。

こんにゃく座との最初の出会いは、たぶん京都会館(現ロームシアター)での『セロ弾きのゴーシュ』だったと思う。ホールが大きく、舞台が遠かった記憶がある。
実は歌役者のひとりが私の同級生の弟Sさんで、同級生から知らせてもらったのだろう。

2回目は、同じく宮沢賢治の『シグナルとシグナレス』。今はなくなってしまった小さな劇場、沖縄ジャンジャンだった。シグナルとして体をブンブン震わせ、汗が飛び散らんほどの勢いのSさんが印象深かった。
沖縄ジャンジャンは1993年閉鎖とあるから、あれから30年は経ったということになる。

そして今回は3回目。ひょっとしたら『セロ弾きのゴーシュ』以前にもう一回観ている可能性もあるのだが。

今回、観劇まえにSさんのインタビューに同席させてもらった。
作曲家林光さんとSさんとの間にあったやりとりを、興味深く聞かせてもらった。
西洋音楽を熟知しながら、それにとらわれず日本語としてのオペラをめざした林光さんの天才ぶりがよく伝わってきた。

以下は、『犬の仇討ーあるいは吉良の決断』の感想。敬称略。

原作は井上ひさし。
もともとは井上ひさしがこんにゃく座のために台本を書くという約束を林光としたそうだが、誰もが知る遅筆の井上ひさし。とうとう間に合わないので「これまでの戯曲をどれか使って」と言われて林光が選んだのがこれだったとか。

歌役者からすると、セリフをのせるメロディーとして「これなのか」と思わせる部分が多々あるそうだが(歌役者のほうにも「こういうふうに歌いたい」という気持ちがうまれたりするそうだ)、回を重ねるごとに「こうなんだ!」という発見があるとのことだった。

私は井上ひさしのファンで、彼の原作なら悪いはずはないと思う。
現にこのお芝居は、忠臣蔵の討ち入りを吉良の立場から描いたもので、「お上に仕える」人々の思惑や、あるいは「世間の感情」が「お上」を左右したり、あるいは「お上」に利用されたり、現代社会のあれこれに思いめぐらせる意味深いものであり、決して「有名なお話の裏話」で終わらない。

登場人物の、とりわけ「プライドなくしてなんの命ぞ」というお三さまと「お家なんぞより命が大事。お家を捨てて生きのびましょう」というお吟さまの対立を通して、吉良が最後の決断をしていく過程は説得力があり、その先には死が待っていると私たちは知っているものの、何か未来への希望が感じられるものとなっていた。

しかし、今回私の心をとらえたのは(内容があればこそなのだが)、セリフを歌うということそのものだった。

セリフを普通に語るお芝居。それに音楽が加わるもの。ミュージカルは音楽を聴かせることに重点があるように思うが、井上ひさしの多くの劇がそうであるように、芝居の中に歌が挿入されるものもある。
そして全編歌で進行するオペラ。

前回のオペラ『つばめ』は歌を十分楽しんだ。けれど芝居としてはどうだったか。オペラというと「歌を楽しむ、内容は少々わからなくても良い」という感じが私にはある。あるいは「オペラの筋書きは単純明快なもの」と言い換えても良いかもしれない。

こんにゃく座もオペラである。
セリフがとてもよく伝わってくる。歌を聴かせるために同じセリフをリフレインすることもない。セリフだけで演じても十分に面白いお芝居を、そのセリフのままメロディーに乗せる。そのことで生まれる表現の深さをどう言い表せばよいのだろう。

連想したのは七五調の美文で語られる歌舞伎だった。理屈をこえて体に響く何があるということ。役者の立ち位置が絵になる点も歌舞伎に似ている。これは時代劇だからか?黒子が登場するのも歌舞伎でおなじみだ。
最後のシーンは、本当に美しい絵になっていた。

リアルというよりは様式美。
リアルは理性的理解と、様式美は情緒的理解とより結びつくのだろうか。
リアルをそなえた様式美、あるいは現代的な様式美。
それをこんにゃく座がつくりだしている。

こんにゃく座はまた別の顔をもっているのかもしれない。もっと観てみたい。
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「マウントをとらせない」ということ

2021-10-25 10:33:06 | 日記・エッセイ・コラム
「女だから」のマウント取らせない 39歳CEO、男社会との闘い方
2021年10月25日 朝日新聞デジタル

ベンチャー企業「リリーメドテック」CEOの東志保さん(39)へのインタビュー記事より、以下引用。

*****
あからさまなセクハラやパワハラは受けませんでしたが、人は弱みを見せるとすぐマウントを取ってくるので、相手からマウントを取られないように気をつけていました。

 大事なのが、自分が「賢い」と周囲に思わせることです。

 ふざけた態度を取ってくる相手にはピリッと返し、「この人にけんかを売ってはまずい」と思わせないと、相手はどんどんつけあがってくるわけです。」
*****

これを読んだ時、私は高校教師時代の自分を思い出していた。
自分が「猿山のボス」だと感じ、そうでなければ授業が成り立たないと思っていた時期があった。

教員になりたてのころは、右往左往する毎日だった。
授業中、授業を聞かない生徒多数。
授業が下手なのだから当然と言えば当然なのだか。
時にはお喋りでうるさく、放置すれば授業崩壊になりかねない。
それを防ぐために、「猿山のボス」になろうとしたのだろう。

今から思えばこれは、「マウントをとられない」ために必死だったのか。
教員一年目。相手は2年生。学校では先輩。
若い女の教師に対して、生徒は(とりわけ男は)、マウントをとろうとしていたのだと思う。

経験をつむことで、生徒との対話が生まれ、「猿山のボス」感覚は消えていった。
歳を重ねたということかもしれなし、それはひょっとしたら、生徒の感覚から離れ「教師になっていった(意図せずマウントをとっていた)」ということなのかもしれない。

マウンティングとは、本来、動物が自分の優位性を誇示するために相手に馬乗りになることを指すそうだ。人間において「マウントをとる」とは、「周囲に(あるいは誰かに対して)自分が優位であることを示す」ことで、マウントを取られた側を利用したりコントロールしたりすることだと、私は思う。セクハラ、パワハラは「マウントをとる」側から「マウントをとられる」側にしかけられる。

本人に自覚が無くても、「マウントをとる」ことがある。女に対して男が。妻に対して夫が。子に対して親が。児童生徒に対して教師が。大学生や大学院生に対しても教員が。会社では上司が。看護婦や患者に対して医者が。一般市民に対して公務員が。

挙げればきりがない。
セクハラ、パワハラで告発された人が、「相手の同意があった」とか「相手に嫌と言えたはず」とか「これはしつけだ」とかいうのは、自分の立場に自覚が無いから。

「マウントをとる」ことにも「マウントをとられる」ことにも敏感でありたい。
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オペラ「つばめ」

2021-10-14 11:31:41 | 芸術およびコミュニケーション

これまで見たことがなく、ポスターに惹かれたこともあって、見に行った。
ダブルキャストでゲネプロと本番とは違う人だった。

ゲネプロなるものに参加するのは初めて。
ほぼ本番通り進んだ。
良い公演だったが「ああ、こういうオペラだったのか」という感じで、特別ということもなかった。
なので、もう本番はよいかとも思ったけれど、人が変わるとどう変わるのかも楽しみだった。

本番を見ての帰り、同じ電車だった人が友人同士で感想を語っていた。
「良かった。でもね、私は衣装があってないと思ったなあ。あの時代のパリの衣装ってあんな感じかな。ぴったりしなというか…」

そう。私も演者たちがパリの雰囲気をまとっていないのが気になった。
衣装のせいもあるかもしれないけれど、姿勢や振る舞いが。
踊っているときも、まるで盆踊りのように感じた。もちろん盆踊りを踊っているわけではないのだけれど。

本番のヒロインが歌うときうつむきがちなのも気になった。
自分のサロンをもつ高級娼婦であれば、もっと胸を張り、顔をあげて、気高いと思うのだけれど。

歌はすばらしかった。でも、演技が伴っていないのでは?
そこが残念だった。

本番では、映画なら助演女優、助演男優といったところのリゼットとプルニエが良かったな。
容姿の良さなんだろうか。背筋が通ってカッコよかった。歌も良かったし。

「つばめ」のヒロインの最期の選択が、劇中で説明がないので今の時代ではピンとこない。
そういう意味では時代を超えた作品になりにくかったのだろう。
なので最初に演出家が出てきて、時代背景のようなものを少し説明していた。
それはありがたかった。

プッチーニと言えばなんといっても「ラ・ボエーム」が一番好き。
「トスカ」も最高。次に「蝶々夫人」かな。
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「日本人」とは?

2021-10-06 07:49:59 | 日記・エッセイ・コラム
真鍋叔郎さんが、温暖化の予測法開発の功績で、ドイツのクラウス・ハッセルマンさん、イタリアのジョルジュ・パリーシさんとともにノーベル物理学賞を受賞した。
今朝からそのニュースでもちきりである。
「おめでとう!」と言いたい。

気になったのは、真鍋叔郎さんについて「日本人の」がしきりに繰り返されることである。
真鍋さんの国籍はアメリカ合衆国だ。

Wikipediaには次のようにあった。
日本人は、次のような幾つかの考え方により定義、分類が可能である。
①国籍による分類 - 日本国民。
②地理的分類 - 日本国の領土に元来から居住してきた民族。大和民族(和人)、琉球民族、アイヌなど。
③民族的分類 - 日琉語族に属す言語を母語とする民族。

簡単に①は日本国民、②は日本民族、③は日本語族 とでも言い分けてみよう。

真鍋さんの場合は、②と③を指すということになる。しかし、民族の話をするならいざ知らず、個人について語るとき、②や③はふさわしくないように思う。
あえていうなら、「日本生まれのアメリカ人」というのが真鍋さんに関する正確な表現ではないだろうか。
それを敢えてあいまいな「日本人」という言い方をするのは、
日本民族の優越性を誇示したがっているような…?

こわい、こわい! ヒトラーを思い出す。
考えすぎだろうか。

真鍋さんたちの功績があって、今私たちは気候変動を認識し、それがもたらす危機を予測している。予測というか、すでにその最中にある。
ありがたい研究である。

一方で、真鍋さんが20代でアメリカに渡ったとき、すなわち1960年前後に、「米国のコンピューターの性能は日本の30倍、給料は日本の25倍」と福岡伸一さんは書いている。
すなわち「外部」からの搾取によって米国は反映し、そのおかげで研究も進んだ。

「外部」からの搾取によって資本主義は繁栄するとともに、「気候変動」というとてつもないものも生み出してしまった。

真鍋さんたちの功績は喜ばしいことであり、名誉や欲ではなく好奇心で研究に駆られてきた真鍋さんに好感を抱くのだが、社会を思うと何か複雑な思いもある。

いずれにせよ、彼の成果に「日本人」かどうかが関係するとしたら、日本の研究環境に見切りをつけ、好奇心を活かせる場所を選んだことが偉業のひとつだったのでは?
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