即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後
2013年6月の異文化間教育学会にむけて、津田塾大学の吉田真理子先生と共同開発したプログラム。
今年も、特別授業として実施しました。
特別授業としたのは、90分では良い学びにならないと判断したから。
2時間半を予定して、土曜日に実施。
参加者は15名。畳の部屋を借りました。
まずは今日の趣旨を説明してから、ウォームアップ。
せっかくだから畳でないとできないことをと、這ったり四つんばいになったりしてジャンケンで勝ち上がっていくゲームをしました。
次に、勝った順に3人ずつのグループに。
このグループで実際に言っていることと、心の中で思っていることが違う場面を考えてもらいました。
ひとことずつセリフのあるシーンを演じてもらった後、フリーズ。
私が肩をたたいて、そのときの心の声をひとことずつ。
今度はそのグループでA、B、Cを決めてもらい、5人ずつのA、B、C三つのグループをつくりました。
そこで、台本を渡します(関心を持っていただいた方は、『教育方法におけるドラマ技法の探求』明石書店をお読みください。台本も使用した資料もすべて収録されています)。
ハックと奴隷のジムは、筏でミシシッピ川を下っています。自由州への脱出を夢見てジムが必死でケーロウの明かりを探している場面。
「まずは一区切りずつ順番に読んでください」
「登場人物はハック、ジム、ジョン、パーカー、そしてナレーションの5人。3分あげますから、配役を決めてください。ただし、ジャンケンでなくて、話し合って決めてね」
「では、その役で読みあわせをしてください」
「筏は八畳ぐらいあるんです。このくらい(と八畳を確認)。広いですね。この上に土をもって屋根をつけて、雨でも焚き火ができるようにしてある。筏は上流から下流へ流れるだけで上流へ漕ぐことはできません。じゃあ、どちらからどちらに流れているのか。それから重要な小道具があります。ジムの上着です(と布を渡す)。今度は立って読んでみてください」
「ジムは必死でケーロウを探していますね。ケーロウはどちら? ジョンとパーカーはどの方向からやってくるのでしょう。もう一度やってみましょう。」
「カヌーが筏にくくりつけられているのですが、筏がこう流れているとすると、カヌーは川上にあるでしょうか、川下にあるでしょうか。そう、川上ですね。川上から手繰り寄せてくださいね。ジョンとパーカーは銃を持っていますが、ハックと出会ったとき、銃はどのように持っているでしょうね。そんなことを考えながらもう一度」
こうして繰り返している間に、読んでいるだけだったのがどんどん夢中になっていく様子。
本番は、台本を演じたあと、パーカーの「筏の上は、白人か黒人か?」という問いに、全員がハックとなって心の声を発してもらいます。
このとき、となりのグループに手伝ってもらい、ハックにジョンとパーカーが迫っているポーズをそのグループが演じたとおりに模倣してもらい、パーカーにセリフを言ってもらいました。
そして私が肩をたたくタイミングで心の中をことばにしてもらいました。
こうして3グループが終了した後、もとの3人組へ。それぞれに作品の背景となる異なる5つの資料を、他のグループに見せないようにと渡しました。ここで90分経過。休憩。休憩中に資料を読んでいます。
再開。3人で資料の内容をシェア。5人のグループに戻ったときに、どう伝えるか話し合います。
5人グループで、それぞれの資料の紹介。この物語の背景が明らかになってきました。
その上で、シーン2のみを再演。ひきつづき心の声。
本来ならここでアンケートを書いてもらって、心の声がどう変化したか各自で考える時間をもつのですが、時間が押してきたので、すぐに話し合いに入りました。
パーカーの問いに自分がハックだったらどう答えるか。白人、黒人、その他に分かれてみました。それぞれの立場から意見表明。
次に、ジグソー活動のあと、気持ちが変わったか変わらなかったかで分かれました。そしてまた意見表明。
ここで10分超過。今日の感想をひとこと書いてもらい、アンケートは後日提出ということでワークショップを閉じました。
2時間半では短かったか。このワークショップはやはり3時間必要。台本を5回も読む必要があったのかどうかは再考ものですが、今回については物語に入り込むために必要だったと感じています。
終わった後、「おもしろい」「楽しい」と言ってくるので、つい「嬉しいけど、楽しいだけでなくって、学んでね」とよけいなことを言ってしまった私。
感想には「この方法は時間がかかるけど、時間をかけるだけの価値がある」と書いてありました。
参加してくれたみなさん、長時間お疲れ様でした。
父の残したアマリリス、今年も咲きました。
今日は、応用ドラマ教育論で裁判員制度をとりあげました。
裁判官、被告、弁護士、検事、検事側の証人が登場する台本で模擬裁判を演じてもらい、他の人は裁判員になってその裁判を見守り、被告人が有罪か無罪かの判断をするというもの。
実はこれは、昨年学生がやったものを拝借。
昨年は、被告が有罪が無罪かをめぐって、グループで活発な話し合いがされました。
けれど証拠不十分の被告を有罪とするグループが多く、被告に対する偏見を感じざるをえませんでした。
ところが今年は、「証拠不十分で無罪」が圧倒的で、話が弾みませんでした。
昨年この授業をした学生に「なんでかなあ」と訊くと、「昨年はグループ内で被告や検事の役をやったので、自分のやった役に感情移入したので議論が活発だったんですよ」
なるほど、今年は裁判員の立場で見守ったので、それほど感情移入せずに、客観的に見ることができた。
議論を活発にするには、あまりにも証拠不十分な台本だったわけです。
今回の台本は、被告は一貫して「やっていない」と主張していますが、このぐらい証拠不十分でも自白があると有罪になったりするかも。
話し合いでは、そこをもう少し突っ込んでも良かったかも。
同じ台本なので、ここまで結果が変わるとは予想していませんでした。
どういう役をするかでこうも反応が変わったとすると、ドラマの手法はなかなか曲者。
まだまだ経験不足です。
アジサイの季節です。今年はうまく咲きました。
表題のフェスティバル、一昨年までキジムナーフェスタとして沖縄市を中心に実施されていました。
昨年は、一部東京、一部那覇で開催されました。よく見ずに、沖縄に居る日の東京演目チケットを買ってしまいましたが。
今年は愛称をリッカリッカ・フェスタと改め、東京(7月26-27日)、那覇(7月27日-8月2日)で開催されます。
国内外から、評価を受けた児童・青少年向けの演劇・人形劇・パフォーマンスなどが終結します。
今年の私の一番の関心は、スリー・イン・ワン「愛と憎しみ…。パレスチナから平和を求めて」。
https://ja-jp.facebook.com/nuchigusuifest.jp
チケットの先行受付は5月30日から6月2日。
ドクダミの花、満開です。焼酎漬けが虫刺されに効くそうなのでつくりました。
さて、前回の授業に続いて。
大飯原発差し止め裁判判決要旨のおさらいをしたのち、川内原発の判決要旨を読みました。
さらに、高浜原発と川内原発の判決文の比較。
そのあと、自分が裁判官だったら、どちらの側の判決をするか、「福井地裁側」「鹿児島地裁側」「わからない」に分かれて、コの字型に座りました。
まず少数派の「鹿児島地裁側」からの意見。
どこかで線引きをして、原発を動かさないと、火力発電所に頼ることになり、地球温暖化が進む。
現にあるものを、すべて動かさないというのは合理的ではない。
それに対して、「福井地裁側」からは、地球温暖化の環境汚染は悪くて、放射能汚染は悪くないのか。環境汚染をひとつの尺度で測るのはおかしい。
万一事故が起こったときに、福島のようにならないという保障がどこにもない。
「鹿児島地裁側」からはさらに、原子力協定があって、そんなに原発を止めるのは簡単な問題ではないという指摘が。
そこで新たな論点として、「原発政策、欠けた視点」と題する藤垣裕子さん、寺島実郎さんの主張(新聞記事)を読みました。
話し合いは、国民はいても、市民(自立的自覚的市民)がいない。市民(私たち)があまりにも無関心だったのではないか。教育の果たす役割は? という方向へ展開していきました。
これから、彼らが環境問題に関してプレゼンをして、それに基づいて討論します。
楽しみです。
黄と赤のガーベラを植えたはずなのに、なぜか赤しか咲きません。
環境教育論の授業で、大飯原発差し止め訴訟判決文を読みました。
前時に配布して、読んでくることが宿題だったのですが、その上でなお判決文をグループで分担して、ポスターをつくって発表することに取り組みました。
その後、川内原発差し止め訴訟判決文要旨および両判決文の比較を資料として配布、次の時間までに読んでくること、その上で次回討論をすることを予告しました。
「ところで、授業方法という点で見ると、今日の授業はどうだった?」という私の質問に、「判決文の内容を共有できたのは良かったけれど、これに基づいての話し合いができなかった。次の時間に話し合いということだけど、1週間たつと忘れてしまう」
「なるほど。宿題として読んでくることになっていたので、プレゼン無しで討論しても良かったかな」
別の学生が「けれど、この内容を共有することがなければ、話し合いに入りにくいということもあるし、話し合っても共通の認識なしに話が進む気がする」
それで、挙手してもらうと、「グループで読み込んでプレゼンすることが必要だった」と感じた人が圧倒的多数でした。
大学生でも「読んできて」だけでは新聞記事が読み込めない人が増えていると感じています。時間はかかっても、グループワークは意味があります。
90分で討論まで収めきれない私の力量の問題か?
いやいや、学生のことを考えると、やはり時間は必要。
こういう授業には、90分は短すぎる。
小・中・高校も含めて、授業時間は講義形式を考えたもので、短すぎます。
アメリカの小学校で見たように、長い間隔で時間を区切りながら、内容は教師の裁量で区切るというスタイルが採用できないものでしょうか。