3月31日でもって退職。退職祝いに花束を3回もらいましたが、花束をいただくのはいつも嬉しいことです。
昨日からは新たに継続雇用として働くことに。仕事半分、給料半分というのは、今の私の生活スタイルに合っています。これからは、もう少しブログをまじめに更新します。
さて、今日は「演じる」ということについて。
私は「ドラマ」について「誰かまたは何かになること」と定義しています。
昨年12月21日の新聞に、俳優の古舘寛治氏がニューヨークの伝統ある演技学校で学んだ大事なことは「演じないこと」と述べています。「演じて、自分でない誰かになろうとするのではなく、自分のままでいる」と。
「なるほどね」と思いました。
なぜなら、プレイバック・シアターでアクターをするとき、役が降ってくることがあるから。
まるでその役が自分であるかのように、自然に動いてしまう。そういうときには、観る人にも伝わるようです。
演じるために必要なのは架空の状況に入ったり、そこから出たりすることが自由にできることではないかと思います。架空の状況の中で自分のままに生きられたら、それは生きた演技となるのでしょう。
先ほどの古舘氏のことばを私流に解釈すると、「誰かまたは何かになる」というときに、その役になろうとすることよりも、その状況を想像する能力が大切ということではないでしょうか。その状況を豊かに想像できる人が、名優となるのではないかと思います。
この間、ワークショップをしたり原稿を書いたりしている過程の中で、「役と自分の関係」ということが話題になりました。
ある先生いわく。
「なる」なんて実際にはできない。学生が「なりきれなかった」と言ったりするが、なりきれるはずもなく、なりきる必要もないということを学生に言う。
役と自分との距離が大切で、自分の役を客観的に「異化」できる距離が必要・・・と。
こういう話が出てきたきっかけは、同化しすぎることによって、心理的なダメージをうけることがあるからです。
それが過酷な状況であれば、想像とは言え、過酷な体験をするわけです。
だから、想像した状況に自由に入ったり出たりできる必要がある。
現実の自分は安全な場所にいるという認識が必要です。
つまり、同化と異化との往還が必要。「同化」することで心理的な問題がおこるというより、そこから「異化」できないときに問題が起こるのではと思うのです。
私の実施しているドラマ教育では名優を育てることを目的としていません。逆に、なってみることを通して、状況が想像できればよいのです。そこが、演じることを目的とする場合との違いかもしれません。