ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

久々のプレイバック・シアター・ワークショップ

2024-06-04 13:40:25 | ワークショップの報告
2024年6月2日日曜日
贅沢な体験だった

「演じる」ことがしたくなって、Mさんを誘って1dayプレイバック・シアターワークショップに参加。コンダクターは、はねちゃんこと羽地朝和さん。

Mさんの面白さを発見
「演じる」「語る」「コンダクター」としての体験
フルコースの楽しい1日だった

午前
・チェックインから自分の言ったことと同じと思う人が「一歩前」
・4人一組で子どもの頃の自分について語る。
・ストーリー1
キャップの仕事の時の自分とそうでないときの自分のギャップ
アクターで参加
・4人一組でシェア
昼休憩

午後
・午後のチェックイン
・体ほぐし、声出し
・感情を言葉と体で+感情10%増し
・動く彫刻1 3つ
アクターで参加 Mさん、初対面の男性の3人で。気持ちよく動いた。
・動く彫刻2 3つ
そのうちのひとつにテラーで参加
友だちとこんぴら歌舞伎に。幕間に友達がスマホを駅に忘れたことを思い出して、取りに行く。
ついて行かなかったので気になって。ついて行けば良かった。
でも、見ているうちに、あれでよかったと思える。ついて行ってたら、友だちが今後負い目に思うだろう、と。なにせ、チケットはお安くなかったから。
・ストーリー2
テラーになった
・4人一組でプレイバック
コンダクターを名乗りでるも、テラー希望無し
横の人にテラーになってもらう
シェア
・チェックアウト

テラーになるつもりはなかった。でも出た。
話したことは、やはりそれが一番毎日の心悩ますことだったということを改めて自覚する。

「未来がこうなっていたら」と語る。
そして、そんなことを言えば、当然、今はどうなのか聞かれる。
話すつもりのなかったことが出てしまう。

【現在の状況が演じられる】【それを見て今の気持ちの動く彫刻】【未来の場面】
たっぷりと話を聞き、演じて見せてくれた。

それを見ていて、「きっと未来はこうなる」と思えた。

最期には感謝されて、それを私は「当然でしょう。これだけ努力してきたのだから」と受け止める。
だから大丈夫だ。
そんな感じで、とてもすっきり。

この記憶があるかぎり、心安らかにこれからを過ごせそう。
まるで私のためにあったようなワークショップだった。
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全劇研in関西にて アトリエふうみんの思い出

2023-07-25 07:57:22 | ワークショップの報告
7月23日、演劇教育連盟主催の研究会(全劇研)に参加してきた。

午前は藤原由香里さんの講座に参加した。

2020年3月に、私が世話人として藤原由香里さんと渡辺貴裕さんの講座を開く予定だったが、コロナのために急遽中止となったのだった。

3年ぶりの関西開催となったが、私は今回実行委員会ではない。
コロナがなかったら、私は継続していただろうか。
「演劇と教育」の世界からまったく離れたわけでもないけれど、今の私の興味関心の中心は、そこにはない。やっぱり私は継続性がないようだ。

けれど藤原さんには、「3年前にできなかったのでぜひ」と声がかかったようだ。
それで私も講座に参加することにした。

藤原さんの講座は、見事だった。
場の温め方から物語に入り込むまで、自然で楽しく、しだいに深く進んでいった。

さまざまな技法を駆使していて、無理がない。
ゲーム感覚で楽しんだことがあとに生きてくる。
豊富な経験と積み上げられた理論がその背景にある。

午後は別の講座を受けたが、一般から集まってきた子どもたち相手に「スーホの白い馬」を演劇的な手法を用いて授業するという難易度の高いものだった。
おそらくファシリテーターはあまり経験もなく、なんとなく乗せられてやってしまったのだろうと思った。しかし、こういう難易度の高いことを経験の少ない人にさせるプロデュース側の意図がよく分からない。ベテランがいるのに、なぜ自分でやらなかったのだろうか。

そして子どもたちにとって、あの場はどういう場だったのだろう。
モンゴルという国をイメージする場だったのだろうか。
羊をおそう狼と狼から羊を守る馬の鬼ごっこによって、羊を守る大変さを想像してみることだったのだろうか。

私自身は考えるよりも実行してしまうタイプなので、ドラマをもちいた授業でも数々の失敗を経験してきた。そうしていろいろなものを身につけていったと思う。
だからこのチャレンジに敬意を払いたい。
子どもたちが鬼ごっこを楽しんでいた様子に安堵する。訳も分からないながら集められて、大人が見守る中、表現してくれた(あるいはくれなかった)子どもたちには感謝している。

さて、その帰り道、藤原さんの車に同乗させてもらった。
いろいろと話しているうちに、「アトリエふうみん」はどうなっていますか?
と訊かれた。
そうだった。アトリエふうみんの看板をかかげて、わが家でワークショップをしたことがあったっけ。おそらく2010年ごろの話。
あれからどちらもずっと「演劇と教育」の世界にいて、時には一緒に宝のような時間を過ごしたのだった。

この年になって、年齢が3回りぐらい離れていても、友達感覚で一緒に話したりお茶したりできることにとても幸せを感じる。
ドラマとの出会いが、私の人生を豊かにしてくれていることは間違いない。
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久々のインプロワークショップ体験

2022-03-18 09:46:10 | ワークショップの報告
3月5日
久々にすぅさんのワークショップがカフェコモンズで開催されました。
インプロinカフェコモンズ

本当に楽しく、大笑いしました。
笑うって心身の健康のために本当に大事。
こういう楽しさを伝えられる仕事ってすばらしい!

すぅさんは『ドラマと学びの場』で講師をしてもらった仲間であり、『〈トム・ソーヤ〉を遊ぶ』でもワークショップに参加して執筆してくれました。
信頼し尊敬する人です。

もと教員であったこと、しかも似たような感覚でその特有の文化を体験してきた者どうしに思え、話していて安心できる人でもあります。

そういう信頼があるからなおのことワークショップが楽しいのかもしれません。
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コミュニケーションと詩 続き

2021-03-23 08:20:02 | ワークショップの報告


みっつのコミュニケーションモデルについて感じたことを追加しておきたい。

なぜ私は「フラットな対話の関係」が日常のすみずみまで必要と考えるのか。
それは民主主義の根幹であり、個人の人権を尊重するということすなわちひとりひとりに敬意を払うということだと思うからだ。

私は教育の中に演劇的手法を取り入れるということを20年ほどやってきた。

そのひとつに、プレゼンテーションの技法として演劇的手法を取り入れるということがある。
獲得型教育研究会にも『教育プレゼンテーション』という書籍がある。
私も書かせてもらった。

この本が出版されたのちに、獲得研の例会で合評会を行った。
その時私は、「この本の実践事例の多くがプレゼンテーションとして完成された発表をめざしている。教育のプレゼンテーションは、インプット・アウトプットの連鎖の中のアウトプットのひとつであって、次へ繋がるものではないか。そういう実践がもっとあっても良かったと思う」と述べた。

今から思うと、これは発信者と受信者を明確に区別しないということでもあった。
共創的なコミュニケーションのなかでのプレゼンテーションを、
私は思い描いていたのだと思う。

競争社会の中で、プレゼンが上手かどうかは結果を左右する。
自分の能力を発揮するために、プレゼンが上手であるにこしたことはない。
今の社会で成功している人は、何らかの方法でアウトプットに成功した人だと思う。
けれどそれが、結局は競争社会を強化し、固定することにつながってほしくない。

自分の思いをうまく話せること。
自分の能力を人の目に見える形で表現すること。
それは必要だと思うし、そういう能力を身につけようとすることも必要だと思う。

けれど、それでもなおそういうことは苦手な人はいる。
例えば、日本という社会では日本語が達者な人は圧倒的に有利だ。
外国からやってきて日本語ができない人が、
日本語ができないというだけで自分の実力を発揮できないことは多々ある。

ひとりひとりの能力を生かすには、
まわりの聴く力(受信力)が必要になってくる。
「何を言っているのかわからない」「変な人」と切り捨てるのではなく
推論する力が求められる。

人と人が同じ土俵にあがるということ。
それは、うまく推論できない人を「空気が読めない」と切り捨てることではない。
力ある人が言わないことを配下の人が推論して、忖度することでもない。

競争社会から共生社会へ。
資本主義から新しい経済の仕組みをもつ社会へ。
未来は民主主義、すなわちひとりひとりが大切にされる社会であってほしいと思っている。
そういう社会の実現に、コミュニケーションのあり方が関係してくる。

ドラマ教育とひとことでいっても、どういう信念や思想のもとにその手法を用いるのか。
そこが違えば結果は大きく違ってくる。

ただ、プレゼンの得意でない私の授業では、こういうことがどれくらい学生に共有されたのか。
ゼロではないことを願いたい。
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コミュニケーションと詩

2021-03-22 11:07:02 | ワークショップの報告



2月28日(2021年)に報告したワークショップの第2弾(私は2回目だけれど、会そのものは3回目)

まずケンケンのファシリテーションで「Yes Yes Yes」
ひとり一言ずつをつないで話をつくって、誰かが「。」というと終了。
みんなで両手指で△をつくり「Yes Yes Yes」という。

この「Yes Yes Yes」と唱和するのが妙に楽しい。

次は「心の風景」
3人から4人のグループになって、ひとりが心の風景を語り、
他の人がそれに触発されて浮かんだことばをふたつ言う。

これはあとのふりかえりで、「題をつけるというのも良いかも」「その題をきいて新しい心の風景を語るというようにつないでもよいかも」とアイデアが出された。

このふたつは、いずれもあとの詩づくりのハードルを下げる役割も果たしたと思う。
ふたりのファシリテーターの間で、なんの打ち合わせもなかったそうだが。

次にしょうちゃんのファシリテーションで
まず、コミュニケーションについてのミニレクチャー。
これが私には面白かった。
三つのモデルを紹介してくれた。

伝達モデル。よく目にするもの。
発信者重視のモデル。
発信者から受信者への間に必ずノイズが発生するので、発信した通りには受信されない。
そのノイズをいかに削減するかということがテーマになる。

推論モデル。
受信者重視のモデル。
受信者が発信者のメッセージを推論する。
私はコミュニケーションの授業で、傾聴について実際にやってみることも含めてとりあげた。
聴き手が「良き聴き手」であることが話し手の表現を豊かにするし、
うまく話すことを練習するより、うまく聴き取ることを練習するほうが
うんと民主的な場をつくるのではないか、と思っている。
けれど推論モデルは、一方的であれば「空気を読む」「忖度する」ということにもつながるかも知れない。

共創モデル
赤ん坊が言葉を身につける過程のようなモデル。
赤ん坊は周りの環境の発する情報に反応し、まわりもまた赤ん坊の発する情報(サイン)に反応する。群生する蛍の一斉の明滅。スポーツやアートにおける阿吽の呼吸。
特徴1:無意識に身体は相互作用し、影響を受け合っている。たまにはそれが意識にのぼる。
特徴2:発信者と受信者は明確に分けられない。

渡辺貴裕さんが『なってみる学び ―演劇的手法で変わる授業と学校』
「フラットな対話の関係」の必要性を書いたが
それを生み出しやすいモデルかも知れない。

いずれにせよ、コミュニケーションにおいてはつねに「フラットな対話の関係」でありたい。

ミニレクチャーのあと、グループに分かれて春をテーマに詩をつくるワークになった。
詩の例が示され
どこで
だれが
どのように
どうした
それについてひとこと
みたいな感じで。

グループの中でそれぞれがつくった詩を披露した後、
自薦他薦で気に入ったフレーズをとりだし
新しい詩をつくる。

うちのグループは
*****
ザッザッザッザ
「お前 そこにいたのか」
ザッザッザッザ
今年も来ない人が待っている
ザッザッザッザ
雨の中で揺れながら

若人たちを見守って
「君たち 一気に開花せよ」
*****
実はこの日は全国的に大雨。
それぞれ違うところにいながら、雨に影響され
桜を思い、
共通する環境があったせいなのか、わりとすんなりできた。
これが共創モデルなのか、なんてね。

もう一つこの日感じた思いがけない感覚として、オンラインであるがゆえに
生身の人の発する雰囲気に左右されないことが
かえってフラットな対話の関係を生んでいるのではないだろうか、ということ。

グループで詩をつくるときに、
短い時間ではあったけれど
それぞれのアイデアをお互いに受け止め合って
どんどんブラッシュアップされていった。
もう少し時間があれば、もっと良くなったに違いない。
とくに最後の2行は推敲の余地ありかな?
本当に楽しい時間でした。
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