ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

かえるがおか中学校

2024-09-27 19:05:42 | 子どもと学ぶ
孫のAちゃんは中学一年

Aちゃんはバスケットボールをやっていて、試合があるからお爺ちゃん(夫)に応援にきてほしいと。

「かえるがおか中学校なんだって」と夫。
「そんな中学校あったかしら」

LINEで送られてきたのは蜂ヶ岡中学校だった。
かえるがおか中学、かわいいな。
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孫の自転車練習

2024-09-26 09:28:09 | 子どもと学ぶ
小一のOちゃんが自転車の練習をしていた。

一応は乗れるようになったのだが、ハンドルがグラグラして、長く漕ぐことができない。
「もっと練習したら?」と言っても「乗れるからいい」と言う。

ところが同級生が自転車を乗り回しているのを見て、「これではいかん」と思ったらしく
「自転車の練習をしたい」という。
それで自宅の前の駐車場で2回練習をした。
駐車場の前に「ここで遊んではいけません」の看板。

「ここで遊んではいけないで」と孫。
「遊ぶのと違ってふうみんがついて練習するのはかまわない」と私。
公園まで1km足らずあるので、そこまで自転車を押していくのはなかなか大変。

先日「今日も自転車の練習をする」という。
けれど英語の塾があるので「じゃあ、塾に自転車で行くか?」ということに。
「ストップって言ったら絶対止まる」と約束してもらう。

相変わらずふらふらしているので見てられないが、近いのでなんとか行きつく。
駐輪場に駐輪。

「あっちこっちフラフラして危ないやん」というと
「どうしたらいい」というので
「ハンドルがぐらぐらしないようにまっすぐすること。そのためには下を見ないで、前のほうを見ることやな」と言った。

イメージ練習でもしたのか、帰りはずいぶん上手になった。
調子に乗ってこのまま公園へ行きたいと言う。
「このぐらい乗れたらいいか」という気になって、公園まで行った。

ちょうど同級生がお兄ちゃんたちとドッチボールをしていて、自転車を放り出して入れてもらう。
帰りも少し練習してなかなか上手に乗っていたが、調子に乗って曲がり損ねて公園の中で転倒。
その時に、ハンドルであばら骨を打った。
相当痛かったと思う。
けれど涙をこらえて、泣かなかった。

あとは私が自転車を押して帰った。
普通に歩いていた。
「トラウマになったわ。もう自転車乗らへん。16歳になってバイクに乗るまで自転車いらん」と言っていた。

ママが帰ってきていたので、私は自宅に戻った。
そのあとLINEで転んだことを報告。ママから「痛くて泣いている」とのこと。
骨にひびでも入ったかと心配したが、翌日「ずっと泣いていたけれど、保冷剤を当てたらすっと寝て、今朝は何も言わずに学校へ行きました」と連絡が来る。
一安心。

Oちゃんのもうひとりのおばあちゃん(ママのおかあさん)は慎重派で、子どもに危ないことは絶対させない。ハサミも包丁も持たせない。
私は大雑把な上に、少々怪我しても体験したほうがいいと思うタイプ。
でも今回は「もし骨にひびでも入っていたら」とずいぶん心配した。
自分の子ならまだしも、孫を預かる立場としては、自分の子より気を遣う。
でも、孫にもいろいろ経験はしてほしい。自分の体力はついていかないが。
難しいなと思う。

学童が窮屈で行きたがらないのは、やはり安全最優先で禁止事項が多いからだと思う。
もし学童でこんなことがあったら、保護者からどんなクレームがくるか分からない。
学童としては限られた人員で安全最優先で運営となると、あれこれルールを決めざるをえないだろう。

孫の自転車を追いかけて走ったその日、万歩計は一万歩を越えた。
孫の心配をしつつ、ぐっすり眠れた。
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キマダラカメムシ

2024-09-18 20:09:22 | 子どもと学ぶ
孫のOちゃんと一緒に歩いていたら、Oちゃんが歩道に虫を発見。

写真検索をしようと試みるけれど、うまく写真が撮れない上に(検索)をタップしても効かない。
それで、「カメムシ 黒い点」で検索したら見事にヒット!
キマダラカメムシだった!

始めて見た。けれど江戸時代には日本に入って来ていて、今は都会では珍しく無いらしい。
だけど大量発生することがなく、他のカメムシに比べて目立ちにくいということだった。

「キマダラカメムシの海外の分布域は、東アジアから東南アジアにかけての地域です。日本で最初に見つかったのは江戸時代。その後150年間も見つかってこなかったのですが、1934年に長崎で再発見されました。2000年頃から急速に分布が拡大し、現在では関東より北の地域でも見つかるようになりました。南方系カメムシであるキマダラカメムシの拡大には、地球温暖化が影響している可能性が考えられます。」https://ccbio.jp/topics/t006 ですと。

今日見たのは幼虫。成虫を見てみたい。
Oちゃんのおかげで初めての虫に出会って、嬉しい日になりました。
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表現と芸術—何が芸術となるのか

2024-09-01 09:08:02 | 芸術およびコミュニケーション
俳句を始めて、表現と芸術について思うことがいろいろある。

これまで「演じる」ということに関わってきた。
プロが演じる芝居と、子どもたちが学ぶときに「何かになってみる体験」として演じることは、どこかで繋がってはいるものの、違うものと感じてきた。

俳句を始めて、その違いが明確になってきたように思う。

俳句はそれぞれ自分の体験や感性に基づいて表現される、その人にとって唯一無二のものである。
けれど17文字しかないので、自分の言いたいことをすべてそこに盛り込むことはできない。
伝わりにくい。
その17文字が芸術となるには、多くの人に共感を与えると同時に、作者ならではの創造性があることが求められる。
つまり芸術かどうかを決めるのは作者ではなく、それを見る他人だということ。

 古池や蛙飛び込む水の音

言わずと知れた芭蕉の名句。
中学校の国語の授業で習ったように思う。

この句を見ると、蛙の飛び込む水の音が聞こえ、古池の景色が浮かぶ。
それはお寺の庭かも知れない。そうでなくても木々に囲まれたそれほど大きくない池だろう。
日が照っているが、池には木漏れ日。
蛙の飛び込んだあたりは、どちらかといえばやや暗い。
蛙は池のふちから出ている石から飛び込んだに違いない。そんな音だ。
その音からかえって静寂が広がる。
落ち着いた穏やかない気持ちだが、少し寂しさもあるかもしれない。

この17文字から、情景のみならず心理までもが見えるように思える。
人によって思い描く情景は違うかもしれないが、多くの人にとって17文字以上のゆたかな情景が広がるのは間違いないだろう。
17文字しかないからこそ、共通点をもちながらも人によって異なる情景が味わえるとも言える。

これが名句と言われ、芸術になる。
しかし、もし多くの人が共感しても「ありきたり」であれば芸術とは言わない。
共感を呼ぶだけでなく、その人ならではの何か(創造性といわれるもの)がないと、芸術にはならない。

毎週、新聞に俳句が掲載され、それを読むのが楽しみになっている。
四人の選者がいるが、この四人が同じ人の句を取りあげることは少ない。あったとしても二人がたまに重なる程度。四人一致は見たことがない。
二人一致も短歌より頻度が少ない。短歌は31文字なので、俳句よりは省略が少ないから、同じ情景を描きやすいのだろう。

どの俳句が良いかは、自分の体験や感性によって異なる。
俳句の選者の中に、戦争体験や平和を願う俳句をよくとりあげる人がいる。その選者が幼少期に満州から引き揚げてきたということを知ると、なるほどと思う。

自分の体験、感性、思いを人に伝わるように句にする。
そのために技巧があり、技巧を知ると他の人の句も分かるようになってくる。
しかし、本質は技巧ではなく、伝わり受け止めてもらえるものがその句にあるかどうかなのだ。

私には言いたいことがあるが、それを句にして伝える力はまだあまりない。
でも、今の私にとってはまず表現してみることが大事。
表現してみることで分かることがある。
自分について、他人について、社会について。

言いたいことをとにかく句にしてみる。
それを句会で読んでもらう。
他の人からの感想を聴く。
どうしたらもっと伝わるかということを教わる。

それが大事。
だから毎回自分なりに冒険をしている。
「これは伝わらないかも」と思うことを敢えて句にして、どうすれば伝わるかを探っている。

「演じること」も表現ということでは同じだと思う。
稚拙に関係なく、自分の体や言葉使って表現するということが尊い。
その尊さを表現するためには、他人の表現を受け止める場をお互いつくることが必要だ。

演じる尊さと芸術であるかどうかは関係ない。
素人の「演じる」がどのようなものであれ、本人自身から出ている表現なら尊い。
けれど身内以外の人に訴える何かがなければ、芸術にはならない。

芸術かどうかは他人の評価。
ゴッホだって、作品を保管し、それを評価し、他に広めてくれる人がなければ、誰にも知られず埋もれていたかもしれないのだ。生前は1枚しか売れなかった。

ここでプロのお芝居に思考が跳ぶ。
プロのお芝居は芸術と言えるのか。
多くの人が、高いお金を払って観に行きたがるお芝居だからといって、必ずしも芸術ではないようにも思う。
逆に、人の入りは少ないけれど、これは絶品と思えるお芝居もある。

これについては、また別の日に書いてみたい。
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