高校の同級生が出演するというので、神戸へお芝居を観に行った。
出演者は同年代の男性ばかり。
テーマは私たち世代にふさわしく、「認知」。
認知症の主人公の記憶が行きつ戻りつ、非現実や忘却も含めて錯綜する。
したがって、出てくる人たちも、おかしな格好をしていたりする。
同級生の役は唯一まともな医者だったが、これも最後には怪しくなり、実在なのか主人公の認知の中なのか、よく分からない。
「冒険王」というタイトルに共感する。
「冒険」という言葉には、とてもチャレンジ精神を感じるし、
冒険しようという気持ちは人生を豊かにすると思う。
そして現実に、ささやかかもしれないけれど冒険して生きてきた。
例えば誰を人生の伴侶にするかということも冒険だったかもしれないし、
その結果は良い面も良くない面もあるにしても、
確かに自分で選んで歩いてきたことに意味がある。
これから年を重ねると認知が壊れるというか変容するというか、
他人の認知とのすり合わせが下手になっていく。
自分の守備範囲にこだわっていると、他人との関係がますますとれなくなる。
日常を豊かにするためには、一歩踏み出す冒険心がますます必要になってくるように思う。
私も吉田真理子さんという信頼できる仲間を得て、
「冒険」のワークショップをやってきた。
見せる演劇ではなく、私たちのは自分たちで楽しむ演劇だが。
冒険心で、人生をエンパワーメントしたい。
同級生たちのお芝居をみて、
会場を借りて人を集めて見てもらうエネルギーの大きさを改めて感じる。
しかも彼らは自分の暮らしているところから出てきて、
ホテルに滞在して練習し、時間もお金もかけている。
おまけにコロナ禍に対処しつつ。すごいエネルギーだ。
このエネルギーに元気をもらう。
その熱演から、かけたエネルギーの大きさが推し測れるけれど、
一方で演劇はとてもエネルギーをもらう営みでもある。
演劇をやっている人は同世代に比べて若い。
他人に見せる演劇は大変だけれど、
そんな大げさなことでなくても地域で演劇サークルがあり、
自分たちで演じて自分たちで見せ合う…みたいなのがあれば、
それこそ認知症予防になったりするのじゃないか。
けれど今のところ私にはそれに向かうエネルギーはなく、
この地域でそういう方面の気の合う仲間もみつけられないでいる。
観るということでいえば私の好きな演劇は、井上ひさしやシェークスピアなど。
高校生の時、民芸の「ベニスの商人」を観たのが演劇を好きになるきっかけだった。
それまでに本で「ベニスの商人」を読んだことがあって、
ポーシャの賢さを面白いと思ったものだった。
ところがお芝居を観ると同じ話なのに世界が一変。
シャイロックの差別されるユダヤ人として悲哀、娘を失った悲しみが胸に迫ってきた。
シャイロック役は滝沢修。
「私は戯曲を読みこなす力がないなあ」と思い、
劇は読むより観たほうが面白い、と思ったものだった。
沖縄ではめったに芝居が見られなかったが、こまつ座の「父と暮らせば」を観た。
すぐには立ち上がれないほど衝撃を受けた。
良い本と出合うのと同じぐらい、良いお芝居と出会うのは人生にとって重要だ。
そういう傾向なので、正直今回のお芝居が楽しめるのかどうか分からなかった
でも、本当に楽しかった。
筋が通らない、理性では解せない、荒唐無稽なことも、
あいまいなことはあいまいなままそれを楽しいと感じる自分自身に、変化と成長を感た。
(な~んて自分でいうのも変だけど)
ただ一点楽しめなかったのは、女性への覗き見や女性(役)の背中のサロンパスという笑い。
笑わせるのは、難しい。
ステレオタイプがあればこその笑いって、笑っちゃうけれど、
自分の中の何かに触れるとき嫌な気持ちになる。
今回のお芝居で、役者の熱演とともに、とても良かったのは観客。
密集と言えるようなあの狭さが良かったのか。
私の後ろの人が最初はおとなしかったが、途中から心の声が漏れるようになり、
「出口がわからんのとちゃうか。だれか助けたりいな」「場面ひとつとばしたんやな?」とか。
その口調が非難ではなく暖かく、その言葉も含めて楽しく鑑賞させてもらった。
京都でお芝居を観ると、私が選ぶお芝居のせいかもしれないけれど、
観客がおとなしすぎると思う。
私だけが笑っていたりする。
あれでは俳優たちは張り合いがないだろうな。
大阪や沖縄は、
観客はお行儀悪いけれどノリがいい。
特に沖縄では、オーディションで地域の人たちが出るようなお芝居が多いせいか、
とても暖かい。
京都は、批評者として観ている人が多いように思う。
お芝居は、やはり観客という存在も含めてのもの。
Zoomでつくった「12人の優しい日本人」を観たとき、役者たちがさすがで、
リモートでもここまで面白いものをつくれるのか、と思ったけれど、
映画で「12人の優しい日本人」を観たらやはり映画のほうが面白く、
人は生きていくには3密が必要だと思った。
まして子どもは3密で育つようなもので、
コロナのマナーが一般化してしまうと、いやな社会になりそう。
お芝居を観た翌日、演劇と教育のジャンルのウェビナーに参加した。
プロの劇団を主宰し学校でワークショップをしている蓮行さんと、
学校で授業に演劇的技法を取り入れている渡辺貴裕さん、藤原由香里さんの対談。
「プロの演劇人から見て、学校で素人が演技をすることについて、
あれは演劇ではないとか、思うことありますか?」と蓮行さんは聞かれ、
「ないです」と即答していた。
演劇は誰でもできる。
その場に触発されて、むしろプロが「まいった」と思うような場面も出てくる。
ではプロは何が違うかと言うと、
そういう場面をあたかも今回初めてかのように、毎回同じレベルで演じられること。
また、同じことをやっていても何かハプニングが起こったとき、
それが流れの一部であるかのように自然に対応できることを挙げていた。
「ナルホド!」と深く共感。
そういう意味では、今回の冒険王は
「ハプニングが起こったとき、それが流れの一部であるかのように自然に対応」
できていなかったので、プロに一歩及ばずというところだろうか。
観たのが初回だったので、きっとあのあと、回を追うごとに完成度が上がっただろう。
でも、私も私の後ろの人も、ハプニングも含めて楽しませてもらった。
同級生の女性3人で観に行ったのだが、
スマホのナビや、ラインへの招待や、ライン電話など
文明の利器がうまく使いこなせないハプニングが続出。
それも含めて、楽しんだ。
かつての同級生が生きて元気に会える間は、
まだまだ人生楽しめそうだ。