月の一度のこどもの学習会。
学習会といっても、私が何かをすることがほとんどなくなって、だいたい子どもたちが好きなことをしている。
12月はお餅つき。餅つき機でつくので、子どもたちの仕事はまずあんこを丸めて用意しておくこと。お餅がつきあがったら、あんころ餅と白餅をまるめること。
子どもたちはあんこをうまく包めなくて、はみだしまくったけれど、40個以上はつくった。
作っては食べるので、正確な個数は分からない。
白餅も30個以上つくった。これは砂糖醤油や大根おろしと味付け海苔で食べた。
つきたての柔らかい餅のおいしいこと。
合間にそれぞれ冬休みの宿題のドリルや私のつくった問題をした。
一斉授業はなし。
工作は、新しい本『<トム・ソーヤ>と遊ぶ』の絵をつかった栞づくりを手伝ってもらう。
お昼はお餅でお腹いっぱいだったので、おやつがわりにお好み焼き。
その後、子どもたちは劇の仕込みに2階へ。
私とカズさんはようやくお茶などでほっこり。
2階で4人の女の子がワーワーキャーキャードタバタ大はしゃぎ。
そして、劇の上演かと思ったら、ダンスに変わっていた。
そうこうしているうちに、お母さんたちのお迎え。
この日、子どもたちは来るなり「私たちからプレゼント」。
袋を開けると手袋。
本当なら、私たちがクリスマスプレゼントを渡すはずなのに?
何も用意していないよ。
お年玉もあげたことがない。
「カズさんとペアルックでうれしいね」と言ったら
夫が横で「ゲッ!」とつぶやいたが…。
Cちゃんが「これ、スマホができるから」と教えてくれました。
親たちがとても気遣ってくれているのね。
ところで、このごろ子どもたちは宿題を早く済ませたいのでドリルをするのだけれど
こういったドリルではちっとも力がつかないのが良く分かる。
単純な計算や漢字はいいけれど、考える力はつかない。
Sちゃんの学校はドリルだけでなく、自主学習ノートがある。
自分で問題を考え、自分で答えも書く。
このノートを書くために、Sちゃんは考えている。
こちらも一緒に考える張り合いがある。
こちらのほうがよほどいい。
「電車に80人乗っていました。駅で14人おりて、16人乗りました。電車の中は何人になったでしょう」という問題。
80-14+16=82
計算はできる。
けれど、計算する前に「最初より減るのかな?増えるのかな?」と聞くと、とたんに答えられないのはなぜ?
「14人おりて、16人乗った」ということが、イメージできていないのでは?
文章問題が生活と切り離されて、機械的なものになってしまっている?
あるいは具体的な乗り降りを数字の変化に抽象化できない?
元が80人だろうと100人だろうと「14人おりて、16人乗」れば2人増えるのは一緒、というのがピンときてないみたい。
生活体験の希薄さだろうか?
こういう力はドリルをくりかえしてもつかない。
痛感させられた。
あくる日、夫婦二人で寝坊。
1日孫たちと一緒にいるのは、よほど疲れることらしい。