ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

友と演劇を観る楽しみー充実の7月

2022-07-31 10:05:25 | 芸術およびコミュニケーション
7月8日金曜日「文学の夕べ」。
私が行ったのは夕べではなかったけれど。
篠田三郎と樫山文江の朗読。藤沢周平と山本周五郎。
Sさんと行った。

Sさんは藤沢周平、私は山本周五郎が好き。
主人公はどちらも女性。方や武家、方や庶民。
短くても観終わった後で、そんな話ができるのが楽しい。


7月17日日曜日「てなもんや三文オペラ」。
こちらはMさんと。
往復の電車とランチも含めて、Mさんとずいぶん話した。
Mさんは美術鑑賞が趣味で、5月には午前は美術館、午後は「あるセールスマンの死」と充実の一日を過ごした。
「あるセールスマンの死」は20代で観たが、よく分かっていなかった。今回断然良かった。

「てなもんや三文オペラ」は思っていたものとずいぶん違った。
もうブレヒトではなく、別の三文オペラになっていた。
マイクを通して大きな声が聞こえるのだが、私にはかえって意味がとりにくかった。

けれど、違った話と割り切れば面白かった。
こういう演劇を演じる中で、若い俳優たちは戦争や戦後について身をもって学ぶのだろう。
役者たちは良かった。ウエンツ瑛士のポール、福井晶一のジェニーがとくに印象に残る。
渡辺いっけいがセリフを忘れたのか「なんだったっけ」みたいなシーンがあったのだが、それも笑いに変えて舞台に取り込んでしまうのはさすがプロ。

マックの恋人であるポリーならぬポール、太ったルーシー。そこにマックの人としてのスケールがあるはず。それがあまり感じられなかったのは生田斗真の若さゆえか。戦争で死線をさまよった挙句大泥棒になったマックを演じるのはなかなかの力量を要求されるのだろう。テレビや映画での彼が好きだが、舞台での演技はまだこれからなのかも。

そんな話をしながら電車で帰れたのも嬉しい。
こういう友達は得難い。


7月18日月曜日「オペラ ファルスタッフ」。
夫と。
なんということもない喜歌劇だが、出演者の演技力や歌唱力で楽しむことができた。


7月23日土曜日「京舞と狂言」。
京舞はあまり意識して観たことがなかったが、5月に山海塾の「かげみ」が良かったこともあり、これまであまり接してこなかったものを観てみようと出かけた。
これはひとりで。

アフタートークを含めて、とても楽しめた。
井上安寿子の「弓流し物語」。初上演とのことだったが、その男踊りの美しさと力強さがとても良かった。
茂山忠三郎の「那須物語」。狂言にも語りという分野があることを初めて知ったし、ひとり三役を舞台上の場所を変えることで表し、まるで目に浮かぶように語るのはさすがだと思った。
今後はこういう分野も注目していきたい。


そして7月31日映画「アプローズ、アプローズ!」。
これも目からうろこの「ゴドーを待ちながら」だった。
訳の分からない「ゴドーを待ちながら」のなかでもとりわけ意味不明なラッキーの存在のリアルに衝撃。そして映画のラストには泣かずにはおれなかった。
演じることで人は変容するということは、いったいどういうことなのか。


演劇鑑賞サークルにも入っているが、せっかくのサークルなのに観た演劇についてそのサークルで語り合う機会がまるでない。これは残念。
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芸術の鑑賞と創作ー短歌AIより

2022-07-06 07:36:06 | 芸術およびコミュニケーション
朝日新聞「俵万智さんが短歌AIを体験してみたら」

俵万智さんの短歌をAIに学習させて、上の句を入れるとAIが下の句を読んでくれる。
俵万智さんが「やられたな」と思うような短歌もある。

俵万智さんはいう。そもそも、人はなぜ歌を詠むのか。「歌をつくるということは、自分の心の揺れを見つめ、感じたことを味わい直すということ。AIは、よりよい表現を模索するための相棒になってくれそうだけれど、歌の種は人の心にあるわけで、歌を詠むのはあくまで自分ですから」

AIの短歌も、人の短歌の学習から生まれるので、人を感動させることができるだろう。

これを演劇に置いてみる。

AIロボットによる演劇が試みられている。
アニメーションという2次元でさえ、人は感情移入し感激するのだから、良くできたAIロボットによる鑑賞に堪える演劇をつくることは可能だろう。
商業的に成り立つかもしれない。

けれど、演じるという行為は、いや観劇という行為も、「自分の心の揺れを見つめ、感じたことを味わい直すということ」である。

派手できらびやかで楽しい舞台は、現実の憂さを一時忘れさせてくれるという意味で必要かもしれないが、そういう舞台を観たときに自分は「消費者」にすぎないと感じるときがある。楽しませてもらっている自分。積極的な関与がなく、受動的に終わってしまう舞台。

一流の演奏をCDで聴くより、二流の(といわれている)演奏をライブで聴くほうがはるかに感動することはままある。エネルギーが発揮される場を共有することで生まれる感動なのか。出かけていくという能動的行動をともなう鑑賞側の積極性なのか。

音楽にせよ美術にせよ、短歌にせよ俳句にせよ、演劇にせよ、元は自分の根源にあるものから生まれる表現であることを改めて考えさせられた。
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