ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

「沖縄を返せ」か「沖縄に返せ」か―教育プレゼンテーションで学ぶ沖縄現代史

2015-08-22 20:48:46 | ワークショップの報告
8月20日、獲得型教育研究会は、沖縄で資料館「不屈館」を舞台にワークショップしました。
教育プレゼンテーションで学ぶ沖縄現代史

私たちBグループは、まずそれぞれが資料をみて印象に残ったことを話し合いました。
米軍トラックにひき殺された6才の少女の写真。
今からは想像もできない伊佐浜の美田の写真。
瀬長亀次郎の不屈の精神はどこから生まれたのか。
娘の手紙すら検閲して届けないアメリカ当局はいったい何をそんなに恐れたのか。
年配者だけでなく若者も瀬長亀次郎の演説を聞いている。
大学生のSさんは「若い人たちは(自分も含めて)社会について考えていないと思った」と。

なぜそうなのか。
アラフォーのMさんは「自分も高校生のときはそうだった」と。
学生と政治と言うとヘルメットとゲバ棒みたいな特殊なイメージ。
大学進学を目指す日常の中で、政治は話題にならない。

その話を聴いて、私は自分の高校時代を語ってしまいました。
学生運動が盛んなのは2年上までぐらいで、その真っ只中に居たわけではないけれど、
関心がないわけではい年代だった。
政経の授業で「安保是か非か」という討論をした。
けれど、そういう討論ができた最後の学年と言われた。

結局、問題から遠いと関心が持てないのは当然。時代や距離の遠さを埋めるのは何だろう。
知るということと想像力。

そんな話の中で、伝言ゲームで話が薄まっていくと言うことを表現しようとKさんが提案してくれました。

「理不尽からの距離」と題した内容は次のようなものでした。
1955年、伊佐浜の自分の家の田んぼを基地のために取り上げられ壊される高校生。
1970年、京都、円山公園の集会で「安保反対」「沖縄を返せ」と叫ぶ高校生(これが私の役)
1990年、東京で、良い大学、良い企業を目指していて、政治には無関心な高校生。
そして2015年の今日、辺野古を、まして1955年の伊佐浜を遠いことのように思える那覇の高校生。
ニュースショーという表現形式に制約のある中で、この4名をキャスターの指示でレポーターがインタビューすることに。

私は実際に高校生のときに円山公園の集会に参加して、
「安保反対」と言い、
「沖縄を返せ」を歌ったのです。

その後、沖縄に住むようになってあの時「沖縄を返せ」と歌ったのは傲慢だったのではないかと思うようになりました。
沖縄は沖縄の人たちのものであって、沖縄に住む私が「沖縄を返せ」というのは分かるけれど、京都に住みながら自分のもののように「沖縄を返せ」と思っていたのではないのかと。

今回演じていて分かりました。
あの歌は沖縄に「沖縄を返せ」という歌だったのだと。
「沖縄の日本への復帰」と「沖縄を沖縄に返す」ということは別のこと。
なのに私は混同して歌を解釈していたのだと。

長年の宿題を解いたようなすっきりした気分になりました。
しかし沖縄の基地問題自体は、すっきりどころではありません。
今回も辺野古へ行くことはできませんでしたが、辺野古への基地建設に私は反対です。
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「アクティブ・ラーニング ... | トップ | 主体的に学ぶってどういうこ... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2015-08-26 01:25:54
獲得研のあいまに鹿野政直の『沖縄の戦後思想を考える』を読んでいました。いかに、自分が当然視していることが、ヤマトという立場からものごとを発想しているかということを考えさせられて、悄然としました。
辺野古へ行きました。少しだけ、座り込みに参加し、あとは、辺野古漁港と大浦湾を見て歩きました。キャンプシュワーブは大きいので、見て歩いたというよりも走って回ったのですが。のどかな漁港でした。ここに基地をつくるより、自然環境を活かした場所ができた方がずっといい。
返信する

コメントを投稿

ワークショップの報告」カテゴリの最新記事