ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

芸術の鑑賞と創作ー短歌AIより

2022-07-06 07:36:06 | 芸術およびコミュニケーション
朝日新聞「俵万智さんが短歌AIを体験してみたら」

俵万智さんの短歌をAIに学習させて、上の句を入れるとAIが下の句を読んでくれる。
俵万智さんが「やられたな」と思うような短歌もある。

俵万智さんはいう。そもそも、人はなぜ歌を詠むのか。「歌をつくるということは、自分の心の揺れを見つめ、感じたことを味わい直すということ。AIは、よりよい表現を模索するための相棒になってくれそうだけれど、歌の種は人の心にあるわけで、歌を詠むのはあくまで自分ですから」

AIの短歌も、人の短歌の学習から生まれるので、人を感動させることができるだろう。

これを演劇に置いてみる。

AIロボットによる演劇が試みられている。
アニメーションという2次元でさえ、人は感情移入し感激するのだから、良くできたAIロボットによる鑑賞に堪える演劇をつくることは可能だろう。
商業的に成り立つかもしれない。

けれど、演じるという行為は、いや観劇という行為も、「自分の心の揺れを見つめ、感じたことを味わい直すということ」である。

派手できらびやかで楽しい舞台は、現実の憂さを一時忘れさせてくれるという意味で必要かもしれないが、そういう舞台を観たときに自分は「消費者」にすぎないと感じるときがある。楽しませてもらっている自分。積極的な関与がなく、受動的に終わってしまう舞台。

一流の演奏をCDで聴くより、二流の(といわれている)演奏をライブで聴くほうがはるかに感動することはままある。エネルギーが発揮される場を共有することで生まれる感動なのか。出かけていくという能動的行動をともなう鑑賞側の積極性なのか。

音楽にせよ美術にせよ、短歌にせよ俳句にせよ、演劇にせよ、元は自分の根源にあるものから生まれる表現であることを改めて考えさせられた。
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