ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

頭の中の警官ー子どもは囚われないのか

2024-08-28 08:19:54 | 芸術およびコミュニケーション
「頭の中の警官」と言ったのは、アウグスト・ボアールだったかキース・ジョンストンだったか。フォーラムシアターやインプロのWSでよく聞く。

大人は「頭の中に警官」がいて、自己規制してしまう。
それが日常になって、自己規制しているという意識すら希薄である。
そういうことに気づいて、自己規制を払っていくことで自由な表現が生まれるという。
だから子どものほうがのびのびと表現できる、と。

なら子どもに自己規制はないのか。
そんなことはない。

確かに多くの子どもは大人より自由だ。
自由なのは自分中心だからだ。
それは世界が狭いということでもある。

ドイツの2歳の子どもの絵に4300万円の値段が付いたことが話題になっていたが、
自由奔放なタッチは確かに素晴らしい。
使いたい色を使って、大きなキャンバスに、おもいっきり太い筆を叩きつけられる環境が、
どの子にもあればいいのにな、と思う。
たくさんの天才が生まれるだろう。

けれど子どもは子どもなりの自己規制がある。
年齢を追うにつれてそれは大きくなる。
2歳の時に手に負えなかった私の孫も、3歳を越え語彙が増えると、ずいぶん落ち着いてきた。
「やってはいけない」「自分のやったことで誰かが困っている」などを感じている。

一方で、世界は自分中心で回っているので、他人への配慮などは難しい。
平気で他人を傷つけることを言ったりしたりする。
ぶつかったときに、ようやく自分以外について認識し、自分の振舞いを変えることを学ぶ。
これまでは泣き喚いて自分の世界を貫こうとしていたのだが。

絵を描くと、意味不明だったものがだんだん形をもつようになるが、一方で花とか人とかステレオタイプになっていく。

子どもは子どもなりに自己規制している。
それが自由に見えるのは、子どもに見えている世界が狭いから。

自分の世界が広がることは、ある意味自由を獲得することであり、
別の意味では自己規制がより働くことにもなる。

人は自分の世界を広げながら、他人とともに暮らすために自己規制する。

私たちは(少なくとも私は)「自分が正しい」と信じ切っている人と共存しなければならないことに疲れる。
自己規制は社会で生きていく以上、必要だ。

しかし、不必要な自己規制に縛られていないか?
自分にそういう疑問を向けるのは、意味のあることだろう。

70歳を「従心(じゅうしん)」と言い、思い通りに行動しても道を踏み外さずに生きられるようになることだそうだが、70歳までにそうなるには、それまでの人生でよほどの修業が必要に違いない。

インプロはあるいはその修業の一つなのかも。
だとすれば、楽しい修行だ。

 打ち上げのジョッキ待つ間の夕焼雲 (再録)

インプロやプレイバックシアターのWS後の一杯はとりわけ美味しい!
コメント
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