最近気になったのが
私と同年代の世間では老人と言われる女性が
見目麗しい若い男性のアーティストや歌舞伎役者を「〇〇さま」ということ
世間では老人という年代であっても、心の中は10代20代と同じく
若い男性にあこがれを抱いたりすることには違和感はない
若い女の子が男性アイドルを「〇〇さま」と呼ぶことはあるが
ただ、この場合の「さま」が単なる敬称なのだろうか
男の子はアイドルに「さま」をつけるのだろうか
私にはこの「さま」が「白馬の王子様」と重なるように思える
プリンセスがプリンスにあこがれる
アイドルをプリンスと見立てることで、自分をプリンセスだと夢見たい
のかな?
私たちは「白馬の王子」の物語で育ってきた世代ではある
しかし今やディズニーの映画でも自立した女性が描かれ
「白馬の王子」に未来を託すようなプリンセスはなかなか登場しない
私は同年代が「〇〇さま」というたびに異を唱えたくなるのだが
黙っている
刷り込まれた文化から自由になるのは難しいのだと思いつつ
以前シェアリング・ネイチャーやその他自然系のワークショップや講座に参加することが多かったが
そこでの違和感は講師が対象を「この子」ということだった
例えば林の中で講師とキノコを探す
見つかったキノコを指してその講師が「この子は」と説明する
ペットを「この子」というのは分かる
子ども同然に一緒に暮らし育ててきた
人形を「この子」というのも分かる
自分の子どもに見立てて可愛がっているのだろう
車のフィギュアを「この子」というのは
「この人にとっては子どものように可愛がっているからそう呼ぶのだろうな」と
ちょっと苦笑いしつつも許容できる
けれど自然界で生きている生物に対して
「この子」というのはめちゃくちゃ違和感がある
とりわけ言ったのが研究者の場合には
可愛いと思う気持ちはわかる
でもあなたの子じゃない
リスペクトはどこへいった
いや、そういう気持ちの問題というより
ニュートラルに種なり属なりで名前を呼ぶのがよいのではないの?
名前が分からないなら「これ」で十分
それが自然への対等な接し方だと私は思っているのだが
違和感を持つのは私だけなんだろうか
私と同年代の世間では老人と言われる女性が
見目麗しい若い男性のアーティストや歌舞伎役者を「〇〇さま」ということ
世間では老人という年代であっても、心の中は10代20代と同じく
若い男性にあこがれを抱いたりすることには違和感はない
若い女の子が男性アイドルを「〇〇さま」と呼ぶことはあるが
ただ、この場合の「さま」が単なる敬称なのだろうか
男の子はアイドルに「さま」をつけるのだろうか
私にはこの「さま」が「白馬の王子様」と重なるように思える
プリンセスがプリンスにあこがれる
アイドルをプリンスと見立てることで、自分をプリンセスだと夢見たい
のかな?
私たちは「白馬の王子」の物語で育ってきた世代ではある
しかし今やディズニーの映画でも自立した女性が描かれ
「白馬の王子」に未来を託すようなプリンセスはなかなか登場しない
私は同年代が「〇〇さま」というたびに異を唱えたくなるのだが
黙っている
刷り込まれた文化から自由になるのは難しいのだと思いつつ
以前シェアリング・ネイチャーやその他自然系のワークショップや講座に参加することが多かったが
そこでの違和感は講師が対象を「この子」ということだった
例えば林の中で講師とキノコを探す
見つかったキノコを指してその講師が「この子は」と説明する
ペットを「この子」というのは分かる
子ども同然に一緒に暮らし育ててきた
人形を「この子」というのも分かる
自分の子どもに見立てて可愛がっているのだろう
車のフィギュアを「この子」というのは
「この人にとっては子どものように可愛がっているからそう呼ぶのだろうな」と
ちょっと苦笑いしつつも許容できる
けれど自然界で生きている生物に対して
「この子」というのはめちゃくちゃ違和感がある
とりわけ言ったのが研究者の場合には
可愛いと思う気持ちはわかる
でもあなたの子じゃない
リスペクトはどこへいった
いや、そういう気持ちの問題というより
ニュートラルに種なり属なりで名前を呼ぶのがよいのではないの?
名前が分からないなら「これ」で十分
それが自然への対等な接し方だと私は思っているのだが
違和感を持つのは私だけなんだろうか
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