ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

制度の枠の中だけでなく

2025-02-14 08:51:49 | 日記・エッセイ・コラム
群馬県桐生市で生活保護制度の違法・不適切な運用が問題になっている
群馬県全体では生活保護利用者が10年間にやや増えている中で
桐生市は半減したというのだ

「手持ち金や預貯金がわずか、けがや病気で就労できない、家賃・税金の滞納があるなど、急迫した困窮状態と思われる相談者が申請にいたらず、その理由が読み取れない」などの事案が複数あったとされる

さらに仕送りなど無いにもかかわらず
「仕送りがある」とされて減額されていた

生活保護の相談窓口に複数の
多いときは4名の警察官が関わっていたことも問題にされている

生活保護の窓口担当者が
時にはカスタマーハラスメントとも言える罵詈雑言や脅しに遇うことは
窓口を担当していた知人から聞いたことはある
その人は心を病み
別の部署へ移った

理不尽な振る舞いに
「力には力を」と元警察官に頼ったということなのだろうか

さらに保護費を直接当時者に振り込むのではなく
第三者の民間団体に管理され
その団体から振り込まれる例があるという
その場合、いろいろな名目でさらに引き去られて振り込まれていたそうだ

私は障害のある方の金銭管理のお手伝いをしているので
他人事ではない

身体の障害で
たんに替わって銀行に行って生活費を引き出したり
振り込みをしたり、という場合は
言われたとおりにすればよいので悩むことはない

けれど認知に障害がある場合
社会福祉協議会の専門員が本人の状況に応じて契約を結ぶ

本人が計画的にお金を使えなければ
社会福祉協議会が通帳と印鑑を預かって
週にいくらと決めて手渡すという例もある

その契約に従ってお金の管理をするのだが私の役割だ

本人の判断が難しければ
成年後見人がつくことになるが
そこまで判断がないわけではないという時
最大限に本人の意思を尊重しながらと思うものの
本当にそれができているのか
本人の言っていることが掴みにくく難しい

桐生市の生活保護の問題は酷い
けれど本人の意思を無視するという同じようなことを
善意でやっていないとも限らない
その理由の一つには、ひとりひとりにゆっくり関わる時間なく働いていることにもある

福祉関係の人は誰もが我が身を振り返り
制度の枠の中だけでなく
制度を疑うことも含めて
考えてみる必要があるかもしれない
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「〇〇さま」と「この子」

2025-02-11 08:01:18 | 芸術およびコミュニケーション
最近気になったのが
私と同年代の世間では老人と言われる女性が
見目麗しい若い男性のアーティストや歌舞伎役者を「〇〇さま」ということ

世間では老人という年代であっても、心の中は10代20代と同じく
若い男性にあこがれを抱いたりすることには違和感はない

若い女の子が男性アイドルを「〇〇さま」と呼ぶことはあるが

ただ、この場合の「さま」が単なる敬称なのだろうか
男の子はアイドルに「さま」をつけるのだろうか
私にはこの「さま」が「白馬の王子様」と重なるように思える

プリンセスがプリンスにあこがれる
アイドルをプリンスと見立てることで、自分をプリンセスだと夢見たい
のかな?
私たちは「白馬の王子」の物語で育ってきた世代ではある

しかし今やディズニーの映画でも自立した女性が描かれ
「白馬の王子」に未来を託すようなプリンセスはなかなか登場しない

私は同年代が「〇〇さま」というたびに異を唱えたくなるのだが
黙っている
刷り込まれた文化から自由になるのは難しいのだと思いつつ

以前シェアリング・ネイチャーやその他自然系のワークショップや講座に参加することが多かったが
そこでの違和感は講師が対象を「この子」ということだった

例えば林の中で講師とキノコを探す
見つかったキノコを指してその講師が「この子は」と説明する

ペットを「この子」というのは分かる
子ども同然に一緒に暮らし育ててきた

人形を「この子」というのも分かる
自分の子どもに見立てて可愛がっているのだろう

車のフィギュアを「この子」というのは
「この人にとっては子どものように可愛がっているからそう呼ぶのだろうな」と
ちょっと苦笑いしつつも許容できる

けれど自然界で生きている生物に対して
「この子」というのはめちゃくちゃ違和感がある
とりわけ言ったのが研究者の場合には

可愛いと思う気持ちはわかる
でもあなたの子じゃない
リスペクトはどこへいった
いや、そういう気持ちの問題というより
ニュートラルに種なり属なりで名前を呼ぶのがよいのではないの?
名前が分からないなら「これ」で十分
それが自然への対等な接し方だと私は思っているのだが
違和感を持つのは私だけなんだろうか
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日曜日は俳句の日

2025-02-09 08:34:18 | 芸術およびコミュニケーション
俳句を始めてから、毎日曜日、新聞の短歌と俳句を読むのが習慣となった

読者の俳句は分かりやすい
プロの句よりも身近に感じられ
読んだものに刺激されて、俳句が生まれることもある

今日(2025年2月9日)の短歌に
 子の家族帰ったあとの布団干しそれは今年の幸せ始め(須賀川市)山本真喜子
 どつと来てどつと去り行く帰省の子の残せし広さ持て余しゐる(長野県)千葉俊彦
の二首

上句だけだとそれぞれ俳句になりそうだ
季語がないと言われるかもだけど

私は山本さんに共感する
子らが帰ってあと始末をしながら、戻った日常にホッとする
やれやれと思いながらも、帰ってきてくれる幸せを思う

布団を干さない夫は、ただ寂しいだけなのか


新聞だけでなく
日曜日にはNHK俳句もある

4人の選者が毎週交替で出てきて
それぞれが個性的でおもしろい

一番好きなのは高野ムツオさん
怖い顔をしているので怖い人かと思ったら
見かけに反してコメントは鋭いけれど優しい

自分の句が高得点で選ばれたら素直に嬉しがる
お茶目な面もかわいい

5週あるときは夏井いつきさん
高校の先生よろしくタレントを鍛えるさまがおもしろい

プレバトは欠かさず見ている
夏井いつきさんは俳句の先生として最高!
いつも納得の添削を見せてくれ
私も作れるかもと思わせてくれる
句会に誘われたときすでに3年はプレバトを見ていた
もし観ていなかったら断っていたかも

日曜日は週の中でも一番在宅率が高いので
NHK俳句やプレバト俳句の録画を日曜日に見ることが多い

だから日曜日は俳句の日
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私のお気に入りの映画

2025-02-04 08:20:40 | 芸術およびコミュニケーション
夫が友人にお気に入りの邦画『日本橋』を貸したら
その人から自分のお気に入りとして『泥の河』が貸し出されてきた

それで、私も自分のお気に入りを思い浮かべてみたけれど
一向に浮かんでこない

邦画以外ならすぐにいくつか出てきた

私の映画体験の原点『オリバー』
見終わった時の感動が忘れられない『ショーシャンクの空に』
ディカプリオの見事な演技とジョニーディップの繊細な演技が語り草の『ギルバート・グレイプ』
何度観ても良い

演劇好きには印象深い2020年制作『アプローズ・アプローズ』
これはまだ新しい
そしてトルコ映画の1990年制作『ジャーニー・オブ・ホープ』
一度しか観ていないのでもう一度観たい

「邦画」「名作」でググってみた
なるほど
観ていないのが結構ある

ググってみたなかで良かったのは
是枝祐和監督の映画は総じて好きだけれど、中でも私は『万引き家族』かな
岩井俊二監督の『Love letter』はとても印象に残っているのに、詳細は思い出せない

土井裕泰監督の『今、会いに行きます』はググった中に無かったけれど泣いた
邦画もすごく良いのをいくつも観てるはずだけれど、なぜかあまり思い出せない

奥山大史監督『ぼくのお日さま』は最近に見たこともあって、とても印象深い
日常がそのまま映画になっているような
誰も声高に話したり感情を顕わにしたりはしないけれど機微がちゃんと伝わってくる

ググった中にはアニメは無かったけれど『この世界の片隅に』も忘れられない作品だ

沢山映画をみてもほとんど忘れている
沢山みるから忘れるのかも、だけど…
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「なる」と「擬人化」

2025-02-02 07:18:50 | 芸術およびコミュニケーション
「演じる」を語る研究会
アラフォー?の女性4人に加えてもらっている

先日、「なる」と「擬人化」が話題になった。
Gさんはあるゲームの中で子どもが「石になった」ことを例に「演じる」ということと「なる」ということを言語化しようとしている

Kさんが自分の主宰しているワークショップで
参加者が絵を描いてその一枚をみんなで演じた例を報告した
想像上の花と、そのまわりの動物たち

食虫植物のその花は昆虫を食べたりするのだが
どの動物も最後は花と友だちになった

その話の時
「なる」と「擬人化」は違うよね
ということをSさんが言い出した

そこで思い出したのが以前に参加したワークショップだった
雄と雌の鹿が鳴きかわすという琴の曲を鑑賞するために
鹿になってみる身体活動があった
それは本当に鹿の動きを再現するために
徹底的に体を動かす活動だった
日頃やったこともない、柔軟性がなければとてもできない動きを求められた
講師は「体の硬い人は頭も硬い」と言った

私はそのワークに反発心しかなく
何かを学んだ気もしなかった

しばらくの休憩の後、琴の曲を聴く
鹿の体になってみたのだから、鹿の気持ちになって聴いてみよう
という

私は言った
実際の鹿の雌雄はこんな風に鳴きかわさない
この曲は鹿に人の気持ちを託しているのであって
鹿そのものではない


そのあと、議論がどのように展開したかはあまりよく覚えていない
けれどワークショップを担当した人からは
嫌われたように思う

今から思えば言葉足らずだった
私は「なる」ことと「擬人化」は違うと言いたかったのだ
今なら言語化できる
それを混同してしまっては、作品理解に繋がらない

Kさんは言う
「擬人化して演じるのは楽しい
でも『なる』って楽しいのかな」
これまた面白い問いだ
また話題になることがあるだろう


役者の演技も「なる」と「擬人化」があるように思う

「なる」ときはそのものになろうとするため
そのものについて情報やそれをめぐる状況・環境について知っていることが必要
「擬人化」は他者の姿を借りた自分
そのものについての情報はあまり必要ない
他者の姿を借りているために、思いがけない自分が出てきたりする

とまあ書いては見たが、あちらかこちらかそんなに簡単に分けられないのが人間
けれど私たちが演技にリアリティを感じるときはおそらく「なっている」時なのだろう
「なる」上にさらにプロのテクニックが乗っているのだろうと思う

研究会は発足から1年以上が過ぎ
一度この研究会を公開してみようということになった
3月23日ズームにて
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