ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

人は人の上に人をつくり、人の下に人をつくりたがるようだ

2021-02-03 17:51:37 | お仕事



仕事が終わって、更衣室で着替えていたら、一緒に仕事をしているHさんに
「あなたって自分に言われていることを聞こえないから返事しないのか、聞こえていてるのかどっち?」
と言われた。
「結構返事しないことがあるので気になる」と。

「聞こえていたら返事しますよ。離れたところで話されると自分のことと思っていないことがあるかも」と、応えたのだけれど。

嫌な気分になった。
私は聞こえていても返事をしない人と思われているのだろうか。

いや、そうではない。
嫌な気分になったのは、その物言いが「私はあなたより上、あなたは私より下」というニュアンスを含んでいたからだ。
パートとバイト。若いと年寄り。仕事できる人と要領悪い人。
任されている仕事の質と量。
そんな違いでメンバーの中にだんだんヒエラルキーができてきている。

まあ、予想はしていたけれど。
気にせずマイペースでいこう。
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最近の情報からの自分自身についての忘備録

2021-02-01 09:39:21 | 読書


ひとつめ。『教育方法49 公教育としての学校を問い直す』 53~66ページ
「4 なぜ理由もなく学校に行けないのか―教室に身をおくことの意味から考えるー」遠藤 野ゆり
「子どもたちが学校に身を置くこと、すなわち子ども共同体の一員として同じ一つの雰囲気を生きることは、同じリズムの中に身を置き、他者の身体活動を寄り添わせることを意味する。」64ページ
そのことによって、「一人では達成できなかった課題を達成したり、他者とつながる心地よさを覚えたりすることができる」。一方でだからこそ、その空間を上手に泳ぎ回る器用さがなければ、それらがネガティブに作用する。

私は、おそらく学校が苦手だった。上手に泳ぎ回る器用さがなかったのだろう。
同窓会で、「あの頃に戻りたい」と聞いても全く共感できない。
「あの頃」は私にとって戻りたくないところだ。
休み時間には教室におらず部室にいた人がいた。
私にとってはそれが生徒会室だったのではないかと、今になって思う。

けれど一方で、例えば逆上がり。一人では達成できない課題だっただろう。
何かができるようになるために、学級という場に影響を受けていたことは確かだ。
コロナ休校のとき、「家では勉強しない」という母親たちの嘆きを聞いて、
学校というところが子どもたちに「勉強するところ」を提供しているという確かな実感を持てたのは、
そういうことだったのかと思う。
この子たちは、学級の中でそれなりに器用に泳ぐことができているのだろう。


ふたつめ。デジタル朝日【資本主義は「もう限界」コロナに地球破壊、立て普通の人】斎藤幸平さん 2021年2月1日本日付
「SDGsはアヘンである」
齊藤幸平さんはEテレ「100分で読む名著 資本論」のコメンテーターとして登場し、これを観て好感を持った。

「SDGsの目標8は経済成長ですが、経済成長は、途上国だけの目標に限定するべきでしょう。そして、すべての目標全体を本気で追求しようとするなら、資本主義システムを抜本から変えざるを得なくなります。けれども、実際には、各国に受け入れられるように、国連がキバを抜いてしまっている。「持続可能」な「開発」なんて、そもそもあるのか、という矛盾を最初から内包した毒まんじゅうを食らっているんです。あらかじめ企業の主張に忖度(そんたく)した議論は、目標実現へ逆に遠回りになってしまいます。」
まったくその通りだと思う。だけど私は「誰一人取り残さない」ということを世界の目標としたということを、まずは評価したかった。

2020年から2022年にかけて小学校から高等学校まで全面移行する学習指導要領のかけ声となった「主体的、対話的で深い学び」。それを実現するために必要な学級規模(学校規模も含めて)の問題を置き去りにし、教師の労働条件と研修のあり方を改善することなく、文部科学省のかけ声だけでは実りあるものにはならない。けれど、教師が一方的に講義する主体の知識偏重教育から方向転換をはかる意味では、私は評価したい。

こういう私の態度は、表面に乗っかる浅はかさなのか。考えさせられた。


みっつめ。『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』ガイ・ドッチャー 2012年
この本は、とにかく面白い。

その中で、日本の信号の色のことが書かれていた。
知らなかったが、信号の色は国際的に赤・黄・緑と定められ、
それぞれの色について使用する波長の範囲が決められている。
ところが日本人はこれを赤・黄・青と言い慣わしてきた。明らかに緑色にもかかわらず。
緑にも青にも何種類もの表現があるほど色に繊細にもかかわらず、かつては緑と青は同じ領域のことばとして認識されていたのであろう。
このこと自体とても面白い。

けれどもっと面白いのは、緑と青を区別するようになった現代において、
信号の色を赤・黄・緑と言うことより、
緑信号の色そのものを決められた波長の中でより青のものを採用するということを選んだ、という指摘。
日本人は依然として信号を赤・黄・青と言うのである。
日本人の思考傾向の一端が表れているように思う。
そして私も同じような思考傾向を持っているのだろうと思う。
自覚しておかなければ。

この本で一番面白いと思ったのは、方向感覚をめぐる自己中心座標と地理座標の話。
知らないことを知り、世界への視野が広がる。
こういう面白い本に出合えると、単純に嬉しい。
この読書経験に他者との対話が加わると、より深い学びになるのだろうと思う。
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