拝殿に 打ち揃いては 高々と 柏手響き 棕櫚を固める
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Paul Anthony Samuelson
ポール・サミュエルソン(Paul A. Samuelson, 1915 年 5
月15日~ 2009年12月13日)がなくなった。米国を代
表する近代経済学者で、ケインズ経済学と新古
典派経済学を総合する新古典派総合の理論を確
立する。1970年代のスタグフレーションフレ)
に、サミュエルソンは有効な対策を提唱できず、
マネタリストのミルトン・フリードマン、合理
的期待形成学派のロバート・ルーカス、成長論
のロバート・ソロー、「赤字財政の政治経済学」
の著者ジェームズ・ブキャナン、ポストケインジ
アンのジョーン・ロビンソン等から批判を浴び、
急速にその影響力を喪失させることとなる。
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昨年、8月「日本経済の再生」(日経ビジネス)
のインタビューで、1990年のバブル経済が崩壊
した後、日本は「失われた10年」と呼ばれる長
期の不況に陥りった時のように悲観的な見方が
広がっている。確かに世界経済を取り巻く環境
は厳しさを増し、金融市場の混乱は収まってい
ないし、原油価格が1バレル当たり百ドルを超
えるなど原材料価格の高騰も続き、少子高齢化
に伴なう労働人口が減少で、将来に対する懸念
が強まるのも無理はないのかもしないと前置き
し、「ですが、私は日本が将来に対してそれほ
ど悲観的になる必要はないと思います。なぜな
ら、こうした困難な状況を打開してより豊かな
国になる方策が日本にはいくつも残されている
からです」と指摘する。
そのインタビューで印象に残った発言をピック
アップすると次のようになる。
(1)研究開発に注力して独創的な製品やサー
ビスを生み出すこと(「既に、日本から独
創的なものは生まれ始めている。例えば、
生物学分野のクローニングのうち最も重要
なものは、恐らく日本の科学者の手になる)。
(2)日本貯蓄運用が下手だ。少子高齢化では、
個人も政府も資産を賢く運用する。
(3)輸出主導型の成長に固執をやめ、内需を
拡大することも必要。赤字国債の発行によ
って財政支出を増やすとともに減税を実施
する。
(4)日本銀行は金利を引き上げる。長期政府
が財政再建を優先し、消費税の税率を引き
上げた。その代わりに金利の引き下げによ
って景気を回復したが、金融政策の効果が
失われる「流動性の罠」に陥った(日銀は
政策の誤りを認めず、ゼロ金利政策を取り
続け、不況が長期化した)。
(5)日本政府は、経済成長させ、国債の残高
について心配するのは、その後でいいとの
ように反論すべきで、世界経済が失速し始
めているなら財政支出の拡大と減税によっ
て景気を刺激すべきです。増税による財政
再建は今なすべきことではない
(5)もっとも、公共投資には注意すべき点が
あり、日本では建設業界の影響力が強く、
公共投資の多くが道路の建設に使われる恐
れがある。公共投資が不必要なインフラの
建設費用に使われないようにチェックする。
(6)少子高齢化に伴う労働人口の減少は日本
にとって重大な問題で、定年退職しなけれ
ばならない年齢を引き上げて、高齢者を活
用する。寿命が延びて健康な高齢者が増え
ている。
(7)米国のようになれとは言わない。今の米
国は市場に対する適切な規制がなくなり、
金儲け優先になりすぎている。こうした姿
勢がサブプライムローンを生み出し、現在
の金融不安を招きました。今の米国に見習
うべきことはない。
(8)経済成長率は高くなくても国民一人ひと
りが豊かなデンマーク、スイスといった小
国にこそ学ぶべき点が多い。これらの国で
は市場メカニズムを重視しながらも、適切
な規制を行っている。
そして、日本の成長潜在力は捨てたものではな
いし、もっと自信を持ちなさいと激励する。首
をかしげるようなところもあるが、概ね賛同で
きる。ユダヤ人でジョン・F・ケネディ大統領の
ブレーンだった秀抜の経済学者の死を悼む。
合掌
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【文化深層:祭りとはなにか】
祭もしくは祭りとは、神霊などを祀る儀式や神
事のこと。祭礼もしくは祭祀とも呼ばれる。ま
た、それに伴う催事を含んで「祭」と呼ぶ場合
もあると素っ気ない括りなる。
「私たちが普段、うれしいとか悲しいとかいっ
ては喜び、悲しむ、この個として持づている自
分の感情や生理的反応・価値判断などは、実は
無意職種に社会制度の枠によって規定されてい
るということを知らねばならない。私たちが帰
属する社会集団には、その社会の絶対的な価値
秩序の構造(価値の中心)があり、この価値の
構造は無意識に個人の感情生活と対応しており、
これによって私たちは泣いたり、笑ったり、怒
ったりしているのである。より正確にはこの価
値の構造によって泣かされ、笑わされ、怒らさ
れているというべきかも知れない。私たちは価
値の世界に生きているということをあまりにも
当然のこととして忘れてしまっているが、個人
の感情はこの価値から出てくるのであり、感情
そのものが制度なのであるといえる」。
渡辺勝義『神道と日本文化』
そうか、社会の絶対的な価値により感情は規定
されるのか。とするなら「共同幻想」の絶対的
価値共有のための集団演劇とするなら、それは
文化の深層まで届いていくのだろうかという疑
問が残る。
「まつり」はその社会の絶対的価値秩序の構造
(価値の中心)を、これを共有する人々が祭り
の時に全員で各々役割分担して、約束事として
決められた通りに少しの狂いもなく身体で演じ
分けているのである。帰属する社会集団の価値
秩序の中心(あるべき秩序・あるべき生き方)
はここなのだということを、誰にもわかるよう
に、ハッキリと可視的・意識的に表現するので
あり、誇張されて過剰にリアルに演ずる必要が
あるのである。日々の「生の充実感」というも
のは、「まつり」によって開示される、その社
会の絶対的価値秩序の体系によって支えられて
いるのである。「まつり」の時には、個人の主
体的意識や感情は極度に落とされ(無化され)、
ないかの如くにされ、あらゆる意識としての充
足は排除される(自我の完全な疎外)。そして、
普段、無意識に社会制度によって規定されてい
る個人的感情を逆に意識的に義務として決めら
れた通りに行う(演ずる)ことを強制される。
価値の中心(秩序)を描くために、厳しいルー
ルが強制され、意識的に様式化した定型的行為
を決められた通りに行うところに価値があるの
である。価値の中心を描くために「周辺部分」
を描く場合もあるが、そこに価値があるのでは
ない。そこでは一見特殊に見える構造を採るこ
とがあり、例えば地位が逆転して見えたりもす
るが、それは逆転ではなく、「強調」なのであ
り、全てが集団化・意識化されているのである。
渡辺勝義『神道と日本文化』
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【文化深層:穢れとはなにか】
黄泉の国から戻ったイザナギ(伊邪那岐)は 禊
をしている。これは、黄泉の穢れを払う行為で
あり、その最中に何柱もの神々が誕生した。三
貴子など。また、祓われた穢れそのものからも
神が誕生した。スサノオがアマテラスの屋敷に
天斑駒を乱入させた故事に於いて従女の死であ
る「死の穢れ」が初出であるとされる。
つまり、ひとたび分離された聖なるもの同士、
つまり伊邪那岐命(の世界)と伊邪那美命(の
世界)が再び出会い、接触することの危険性を
「ケガレ」といっているのであり、私たちはそ
れを現実に「汚いもの」「よごれたもの」「怖
ろしいもの」として認識することで「避ける」
という行為を生み出しているのである。千引石
によって明確に分離されなければならない両者
が、千引石を越えて伊邪那岐命の世界へ、ある
いは伊邪那美命の世界ヘ一方から他方へと侵入
し現れてくるのを「ケガレ」と呼んでいるのだ
と解するのである。
渡辺勝義『神道と日本文化』
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なんだ、混沌としたものから秩序を打ち立てた
のに、再び、混沌とした状態に戻すようなこと
を「穢れ」といい、これを正し本来のあるべき
状態に戻すことを意味すしているのかと新鮮な
印象持ち、咀嚼解釈することに。
「死」そのものがケガレであるとか、「死体」
そのものがケガレであるとか、あるいは「黄泉
国」や「伊邪那美命」そのものがケガレである
というものではない。そうした理解しかできな
いのは『古事記』神話の構造を掴んでいないか
らである。伊邪那岐命が黄泉国から自分の世界
に戻っての喫ぎ祓いの果てにその本来に復し、
後に高天原の統治者となる天照大御神ほか三貴
子の誕生を見た、即ち世界を動かす力を創造し
たということは、そこに再び世界の秩序が現れ
たということなのであり、伊那那岐命と伊邪那
美命の両世界が、そして全体世界がその本来の
伏態に復したことを如実に示すものである。伊
邪那岐命の世界と伊邪那美命の世界とが千引石
によってシッカリと閉じられ、互いに領界を侵
犯しあわず、おのおの世界を分担し保ちあって
いることが即ち、生成化育の産霊の神業が未来
永劫に亘って絶えることなく不断に行われてい
るということをなにより示しており、私たちの
この存在世界は弥栄(安泰)であるという訳な
のである。そして喫ぎ祓いこそはその本来のあ
るべき秩序を回復し、世界の秩序を顕わにする
重要な手続きなのだということができる。
渡辺勝義『神道と日本文化』
そして、渡辺勝義は、私たちは肉体あるが故に、
どうしてもこの肉体の中に「私」という本質(
本当の自分)が自己完結してあるものと錯覚し
ている。本来の私は決して私自身(個人)の中
に閉ざされて存在しているものではなく、むし
ろ「外なる私」として世界に開かれて存在して
いるのである。然るに肉体の感覚だけに頼って
生きていると、この世界に開かれた外なる私の
存在に永遠に気づかない状態に陥る。この状態
を所謂「疎外」という。疎外を自覚できないま
まのあり方では、「私」は生命の泉を断たれた
状態になって枯渇していくしかないとし、つま
りは、そのことに対する漠然とした畏れ(不安)
から逃れるために、必死で「内なる私」にしが
みつき→その補償行為として外的刺激を求める
行為が(益々真の私を枯渇させる)、誤った生
き方がケガレの本質で、本来の道筋に立ち帰る
ために、枯渇への道(キエルケゴール流にいえ
ば「死に至る病」)を断ち切る祈りこそが祓い
の本質であり、それは疎外されているという人
間本来のあり方を踏まえた上での、存在への回
帰への真摯な祈りであるといえよう。私が外に
あるということは殆んど誰も気づいていないが、
『古事記』や『日本書紀』に実に見事に描かれ
ているというが、このつづきは後日に。
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東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
柿本人麻呂
シュロ(棕櫚、棕梠、椶櫚、学名:Trachycarpus
fortunei)は、ヤシ科の常緑高木。庭園で装飾樹と
して用いられる事が多い。樹皮はシュロ縄とし
て古くから利用されている。排水良好な土地を
好み、乾湿、陰陽の土地条件を選ばず、耐火性、
耐潮性も併せ持つ強健な樹種である。生育は遅
く、管理が少なく済むため、手間がかからない。
心配された天気も上々で式典も無事終わり安堵。
静かな境内に、長達の柏手が響き、こころを棕
櫚のように固め合ったと大祓の光景を詠む。南
九州原産の「シュロ」。花言葉は「不変の友情」。
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