めったにお神籤ひくことはないのに石上神宮で試したくなった。
卦は末吉で、内容がよくなかった。
病気は軽からず、旅立ち待てとか。
授与所で珍しいお守り売ってました。
「玉のを」??
こんなの見たことない。なんですかと聞くと
ここだけのお守りと言われたし、近々ややこしい国へ旅立つ予定があったので賜ってきました。
家に帰って中をあけてみました。
白いムーンストーンのような石の勾玉が紐で結ばれています。
包まれている紙には朱印が押されていますが、見たこともない字が並んでいます。
「玉のお」で検索してもなかなか見つからなかった。
ここだけですと言われたのに・・・
やっと天理市観光協会の様々な行事のところで見つけました。
2月2日 石上神宮「玉の緒祭」
玉の緒祭は、神宮の祭神、布留御魂大神の神威により、体についた全ての邪気や穢を祓い、守護を祈る祭典です
「玉のを」とは、人の玉(魂・生命)が絶えないように繋ぎとめておくための緒(紐)のこと。
なんか守ってもらえそうなお守りでしょう。
今日は実家の母を見舞ったあと、楯原神社へまわってみました。
前回の石上神宮で書いた、十種神宝(とくさのかんだから)を祀っていると知ったから確かめるためです。
阪神高速・喜連瓜破出口近辺、平野区の入り組んだ住宅街の中にありました。
楯原神社は崇神天皇御代の創建とされる式内社だとかでかなり古びてた。
拝殿裏に廻るとお社ありました。
デジカメを持っていくのを忘れたので、携帯カメラで写したのはこれだけ。
大正3年内務省により認定されたと書かれていました。
十種神宝大神の由緒より
足利義昭は征夷大将軍となったが実権は織田信長に握られていた。
義昭は、大和の法隆寺、石上神宮、山城の大徳寺、紀州の根来寺、摂州の本願寺などに呼びかけて反信長戦線をもくろんだ。
しかし到底信長の敵ではなかった。
信長はこれ幸いと古い社寺を叩きつぶしにかかった。
石上神宮も焼き討ちにあい、この時十種神宝が持ち去られたと言う。
幸い丁寧に保管されており、これを知った秀吉が生魂の杜深くに永久に鎮めた。
倒幕直前の混乱期に生魂の宮も暴徒に襲われ、十種神宝は再び持ち去られた。
町の古道具やで喜連に住む小林某なる人により発見され、順次人手に渡りつつもある篤志家がこの神社に献上され祀られた。
後に室戸台風で社殿は倒れ長らく拝殿に祀られていたときに、石上神宮の守護職を歴代つとめている庄司氏が返還を求めてきたが、新しく社殿を建立して返さなかった。
「河内国河上の哮峯に天降座りしより幾千年、神宝はよき地を得て鎮まる処を得るなり」