こどものころ、親戚は地名でよんでて、
河内長野のよつは、與通だったことをこの年になって知りました。
808年(大同3年)弘法大師が修行のために槇尾山に向かう途中、昼食を摂った場所に建立された盛松寺。
大師は「冬至に柚子味噌をつくって食すると疫病ならない」と伝えたという伝承があります。
大師が立っていた所から樟が生え4本に枝分かれしたので、
四鉤樟(よつるくすのき)が訛って→「よつくぬぎ」→「四つくの木」→「四通」(よつう)→「四樟」(よつ)→「与通」→「與通」
『與通大師盛松寺』親しみをこめて「
與通のお大師さん」と呼びます。
17日、河内長野にある盛松寺を訪れた話をエントリーしたら
また親戚のおっちゃんからメールもらいました。
写真を見て判った事は以前は本堂の真正面に門が有って参道が続いていたが、今はお寺の下を全部学校にして門も横の方に建替え参道も付け替えられたようですね。(寺から眼下東方は殆んど田畑で遥かに高野線の電車が見えました)
Wikiでみると、1950年に当時住職であった高橋道雄師が千代田学園を創立させています。
おっちゃんが子供の頃ヨシばあさんに連れられて盛松寺に月参りしてたのは戦前。
その頃は学園が設立されてなかったので、本堂正面に門があったのですね。
冒頭の地図に、中央の千代田高の左下が盛松寺、
右手クロスマーク地点の画像をネット検索にて拝借してきました。
おそらく戦後、千代田学園が設立されるまで、盛松寺の参道が始まる地点だったのかもしれない。
ちょうどそこは、西高野街道と中高野街道の合流する地点でもありました。
高野詣のために高野山へ歩いて行く「高野参拝道」のうち、
港町として発展した堺を起点とする
西高野街道は、高野参詣の本道として「高野道」と呼ばれ多くの人が往来しました。
旧街道はほぼ現在の国道310号線に沿っています。
現在でも高野山女人堂への町石(十三里石から一里石)が先の高野街道と共に
当時のまますべて現存しています。
子供の頃はもとより、成人してからも何度も310号線は通行してますが、
関心ないということは恐ろしいものです。
17日は初めて狭山池東側の府道198号線を走り、あまりに狭い村道で驚きました。
この道が
中高野街道だったのです。
中高野街道起点は杭全神社西の泥堂口にあった一里塚とされていますが、
守口市の京街道から十三夜坂を下っていく平野までの道のりも中高野街道と呼ばれています。
(守口から平野までは時代によって「放出街道」と呼ばれた)
平野から大和川を高野大橋で渡ると屯倉神社・菅生神社など由緒ある神社が続き、南海電車高野線千代田駅手前で西高野街道と合流します。
なんと守口が基点でもあるんだって
知らんかった…
「京街道から
十三夜坂を下っていく道が中高野街道」
どこを十三夜坂と呼ぶんだろうと調べてみたら、
なんとおなじみキラクの昔の場所の前の坂、
現在キラクはその坂を上がったところに移転したのでした。
平安時代末期になって熊野詣がすたると共に高野詣でが京都の天皇公家を中心に盛んになり、この風習は後武士、庶民にまで広がった。
京都方面より大阪を通り高野山に行くには、淀川を舟で下って大阪で上陸、
その後四つのルートの高野道が伝わっている。
その内、四天王寺に参りそのまま南下する路、下高野街道と
南東の平野郷を通り南下する路、上高野街道の総称を、西、東高野街道に対して中高野街道と地元では呼ばれた。
しかし、一般にはこの上高野街道の路を中高野街道という。